第1347日目 〈ミカ書第4章:〈終わりの日の約束〉1/2with内輪の恥をどうして曝す?〉 [ミカ書]

 ミカ書第4章です。

 ミカ4:1-14〈終わりの日の約束〉1/2
 終わりの日、主の山は他より一際高く聳え、諸国民の旅の道しるべとなる。かれらはいう、ヤコブの神の家に行こう、と。ヤコブの神が示す道はわれらが歩む道。まこと、教えはシオンから出て、言葉はエルサレムから出る(ミカ4:2)。
 ヤコブの神は諸国民を裁き、はるか遠くの強い国々までも戒める。かつての列強国は剣を打ち直して鋤に、槍を打ち直して鎌とする。国と国が争うことはもはやなくなり、戦争は放棄される。すべての民はそれぞれ自分のぶどうの木、いちじくの木の下に憩い、なにものにも脅かされない平和を味わう。
 かれらがそれぞれ自分の神の名によって歩むように、さあ、われらもイスラエルの神の御名によって永遠に歩こう。その日が来たら、と主はいう、――わたしは足の萎えた者と追いやられた者を集める。足の萎えた者は残りの民として労り、遠くへ連行された者を強くする。これより先は久遠に主がシオンの山に在ってかれらの王となろう。王権は再び返ってくる。
 娘シオンよ、辛くても泣き叫ぶな。町を出て野を行くことになろうとも、バビロンへ辿り着けば、かの地で救われる。そこでお前は主により敵から贖われる。

 「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。/敵は我々を包囲した。/彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。」(ミカ4:14)

 本章を読んでいると、ちらちらと、記憶の片隅に残滓の如く残っている文言に出会します。それらがすぐに、何の何章何節だ、とわかり、当該ページを開くことができればよいのでしょうが、残念ながらそんな芸当はできないでいる。
 確かに覚えている、あの頃に読んだのだからこの書物あたりであろう、と、大まかなアタリを付けてページを開くも、それに類するような言葉すらまったく見当たらない。そんな隔靴掻痒を感じることがしばしばあります。
 「ミカ書」は後半になるに従って先行する預言書に登場した文言が散りばめられている、或いはそれを想起させるケースが目立つ。本章に於いても例外ではなく、たとえばミカ4:1-3とイザ2:2-4、ミカ4:12とエレ51:33とホセ13:3、といった具合であります。前者などはそっくりそのまま引用されているところから、「ミカ書」と「イザヤ書」の関係、2人の預言者の互いの認知といった点その他について、いろいろと考えさせられるところでありましょう。
 ――それにしても、「主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。」(ミカ4:2)とは良い言葉ですね。



 ブックオフはだいじょうぶでしょうか?
 昨日、某店舗にてあった出来事ですが、出張買取の案内アナウンスにかぶせて複数人の計算待ち客の呼び出しがされ、その上から更にセール案内のアナウンスが畳みかけられた。
 常より店舗スタッフの非常識ぶりには呆れるを通り越して感心しているのだが、さすがに今回は非道すぎた。というのも件のアナウンス・タイミングのことで、スタッフ同士がインカムや対面で口論・罵倒する光景を目撃したから。しかも客が十数人いる前で、カウンターや通路にて堂々と。
 ――元よりそうだが近頃は頓に、商品知識や接客マナーの欠落に加えて、ほんのわずかの礼儀や常識すらも弁えぬ愚衆が雁首揃えるようになってきたらしい。
 恥ずかしい。
 内輪の恥を、なぜお客様に曝すのか。もし自分が客ならどう思うか。まずはそれを考えよう。◆

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