第1357日目 〈「ナホム書」前夜withいつまで続くのか、この邪淫の妄執は?〉 [ナホム書]

 12小預言書の後半が「ナホム書」から始まります。
 本書はアッシリア帝国最後の首都ニネベの陥落にまつわる預言です。その昔、ニネベにはヨナが行っていましたね。ナホムがいつの時代を生きた人なのか判然としませんが、前612年のニネベ陥落をあらかじめ預言した点から、南王国ユダがヨシヤ王を戴き、エレミヤが預言活動を行った時代に生きた、とされます(岩波10 P371)。ナホ1:1にナホムはエルコシュの人と紹介されるが、このエルコシュがどこなのかもわからない。ユダ王国のどこかであろう、という程度しか。
 エレミヤ、イザヤ、エゼキエルを除いては旧約聖書に登場する預言者は出自の詳らかでない者が多い。むしろそれが当たり前なのだろうが、やはりナホムも例外ではない。かれがどんな理由あって主により召命され、ニネベ陥落の預言をあずかる役を担ったのか。当時ユダを脅かしたアッシリアが敵国の攻撃によって倒れる。それ自体はユダにとっても幸い事であったでしょう。
 ──ではなぜ、イスラエルの神なる主はナホムを預言者に選んだのか。同時代にエレミヤがあれば、尚更この疑問は大きくなります。
 同時代に、同じ国で活動して名を残した預言者は一人とは限らない。直近で例を挙げれば、イザヤとミカがおりました。<哀しみの預言者>エレミヤを自分の生きる時代に持ったナホムについても然りであります。片方が王都に在るなら、もう片方は地方に。こうやって主は自分の言葉──未来についての幻を、預言者を通じて国民にあまねく知らせた。
 どうしてか。たとえかつてより衰えたと雖も未だ主の民であったユダの家の人々を、一人でも多く救おうとしたかったからかもしれない。可能性の芽を少しでも多く残そうとした主の計らいかもしれない。そうして人々に対して、主の威光、栄光をわずかでも人の心に強く与え、むかしのような畏怖と崇敬をかれらの心のうちに育もうとしたからかもしれない。
 そんな風に、わたくしは妄想する。独善的かつ蒙昧な言葉をいつも並べて申し訳ないけれど、わたくしが読んでは思い、読んでは書けることなんてその程度だから、どうか詳しい人、信徒の方々は目をつぶってここを通り過ぎてほしい。
 「見よ、良い知らせを伝え/平和を告げる者の足は山の上を行く。/ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。/二度と、よこしまな者が/お前の土地を侵すことはない。/彼らはすべて滅ぼされた。」(ナホ2:1)
 それでは明日から、これまで同様一日一章の原則で、12小預言書の後半の開幕を担う書物、「ナホム書」を読んでゆきましょう。

          


 邪淫の妄執は死して後まで吾を拷問するか。
 あなた、救ってほしい、抱きしめてほしい。◆

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