第1368日目 〈「ゼファニヤ書」前夜with黄昏時のカフェのテラス席で。〉 [ゼファニヤ書]

 南王国ユダに預言者が割拠した時代があったとするならば、まさしくそれはエレミヤが生きた時代であったでありましょう。既に読んだなかでもオバデヤがおり、ナホムがおり、ハバククがいた。そうしていま、われらはゼファニヤという<エレミヤ時代>の預言者を、ここで新たに知ることとなりました。
 「ゼファニヤ書」が冒頭で記すように、かれが活動したのは、堕落したユダを<主の坐す国>へ立ち帰らすよう改革を断行したヨシヤ王の時代でした。が、ゼファ3:1-5が端的に語るように、ゼファニヤ活動期のエルサレムは腐敗していた。神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった(ゼファ3:2)王都エルサレム――即ちそれはヨシヤ王が改革に着手する前の時代である、と推測することができる。預言していた当時かれは何歳で、どこに生まれていつまで生きたのかなど知る術はない。が、およそゼファニヤはヨシヤ王による改革の<ビフォー・アフター>を経験した人物であろう、と考えてよいでしょう。
 なお、ヨシヤ王の事績は王下22:1-23:30、代下34をお読みいただければ幸いですが、ここでは神殿の補修工事中に律法の書が発見されてそれを王が民の前で朗読したことと、その治世第18年に過越祭が祝われた、という2点を申し添えておくことと致します。
 本書の成立は捕囚期以後とされることがあるようですが、原「ゼファニヤ書」というべき書物は概ねかれの存命中に成っていた、と考えてよいのではないか。要するに、まず身辺にあった人、或いはゼファニヤ自身が預言を書き留めた一書があった。それはユダ王国末期から補修解放の間に補筆改訂されて、然るべき方針の下に旧約聖書へ編入された。そう見るのが妥当であろう、とわたくしは考えております。
 語られる内容については他のユダで、エルサレムで活動した預言者たちと変わるところはありません。罪が語られ、裁きが告げられ、回復が宣言される。他の預言書とは一線を画すような特徴は、これといってないように読みました。しかしながら、自分でもこうして書きながら、どんな理由ゆえかわからないけれど、わたくしはどうしたものか、この「ゼファニヤ書」が気になって仕方ない。いつもと同じく明日から1日1章ずつ読んでゆきます(「ハバクク書」のときは夏風邪をこじらせかけて、更新を諦めねばならぬ日もあったけれど)が、今回は並行して、なぜ本書に斯くも心惹きつけられるのか、それを探ることにもなりそうです。むろん、自分の内に於いて、というお話しです。



 ベージュ色のビルの壁がオレンジ色に染まってゆく。街路樹の緑の葉が涼やかな風に揺られている。どこか離れた場所から蝉の鳴き声が断続的に聞こえてくる。車がゆっくり走ってゆく一方通行の道路、その両端の歩道を老若男女が行き交う。
 タリーズコーヒーのテラス席で「ゼファニヤ書」の露払い的ノートを済ませ、ぼんやりしながら、なかなかここを立つ踏ん切りが付かぬまま、これを書いている。暮れてゆく街のなかに身を置いて、街路樹の一本一本を眺めて「木の名前が図鑑とか見ずにいえたらいいなぁ」と思い、視界の右から左へ、左から右へ、向こうからこちらへ、こちらから向こうへ、移動して止まることのない恋人たちや夫婦を見ている。
 良いなぁ、と思う。羨ましいなぁ、とも思う。それ以外の感情は生まれない。あるとすればただ一つ、未だ現在進行形の希望だけ。
 ――空はだんだんと青みを失ってゆきつつある。そろそろ立とう。帰ろう、望まぬ家のある場所へ。◆

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