第1369日目 〈ゼファニヤ書第1章&第2章1/2:〈主の怒りの日〉withカフェ密集エリアで働く。〉 [ゼファニヤ書]
ゼファニヤ書第1章と第2章1/2です。
ゼファ1:1-2:3〈主の怒りの日〉
預言者ゼファニヤに預けられた主の言葉、――
わたしは地の面から、空と海から、すべての生きとし生けるものを一掃する。わたしを忘れて蕃神に従う者、わたしに逆らって生きる者、エルサレムとユダに在ってわたしを拝み、マルカムとバアルへ誓いを立てる者を断つ。
主のいけにえの日が訪れたらば、高官も祭司も王族も、異邦人もすべてを罰する。敷居を跳び越える者、主の家を不法と偽りで満たす者を罰する。
エルサレムの西側の地区から悲鳴や泣き叫ぶ声がする。大きな崩壊の音が聞こえ、都のあちこちから助けを求める声があがる。
……主は幸いも災いもくれない、とぼやく酒飲みを、わたしは罰する。かれらの財産は奪われ、家は荒れる。が、建て直してもそこへ住むことはできない。ぶどう畑を整地して木を育てようとしても、実がなることはない。況やぶどう酒をや。
主の大いなる日はすぐそこへ迫っている。もはや何人と雖も逃れることはできぬ。その日は誰もが悲痛な叫びを喉の奥から搾り出す。苦しめ。盲目の人のように歩め。かれらはわたしに背いた。犯した罪の重さを知れ。かれらの血は塵のように地へ散り、臓物は排泄物の如く撒かれる。
主の憤りの日に全地は火で舐め尽くされる。恐るべき破滅が降りかかる。
恥を知らぬ国よ、集まれ。判決が出ぬうちに、来たれ。この地でまとめてお前たちを絶つのだから。
わたしを信じる人々よ。裁きに耐え、苦しみに耐えた人々よ。わたし主を求めよ。わが恵みの御業を求め、苦しみに耐えることを求めるがよい。終わりの日に、怒りの日に、あなたを守ってくれるだろうから。
「その日は憤りの日/苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日/闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。/城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい/角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。」(ゼファ1:15-16)
マルカムはヘブライ語で「かれらの王に」の意味。アンモン人の信奉する神ミルコムを掛けた言葉であり、またミルコムは過去に何度か名の出たモレクであります。イスラエルの神なる主を拝む一方でミルコムを、バアル同様にユダの王が崇めるようになった、というのがこの節のいわんとするところであります。
引用箇所のみならず「ゼファニヤ書」自体が黙示文学を想起させるものがあります。言葉や表現、描写の激しさということだけでなく、底を流れる思想にそう感じるのです。これまでの預言書も同様だったかもしれませんが、「ゼファニヤ書」を読んでいつもと違う感覚を抱いたことの一因はそのあたりにあるのかもしれませんね。
また、ゼファ2:1-3は第1章にて預言された破滅をまぬがれるためにも斯くあれかし、と民へ反省を促す箇所であります。
まだ「創世記」と「出エジプト記」前半など手附かずの箇所はあると雖も、いよいよ旧約聖書の終わりへとわれらは到着しようとしています。予定通りなら今月いっぱいで「マラキ書」を終わらせられるでしょう。
感慨を記すには勿論早いけれど、本ブログを開始した当初はこんな日が訪れるなんて夢想だにしませんでしたね。読み始めてからもう5年になるのか。この間、いろいろあったなぁ……。
カフェ・ド・クーリエにて原稿書き;モレスキンにエッセイを書いた。こちらについては「ゼファニヤ書」が終わったあとにお披露目予定。
会社のまわりにはカフェが多い。土地柄もあろうが、10軒強の店舗が集中している。或る種、僥倖である。
こうなったら<基地(ベース)>になる店を幾つか確保の上、ローテーションで回遊してゆけば原稿書きも捗るに相違ない――そんな夢想を弄んでいます。◆
ゼファ1:1-2:3〈主の怒りの日〉
預言者ゼファニヤに預けられた主の言葉、――
わたしは地の面から、空と海から、すべての生きとし生けるものを一掃する。わたしを忘れて蕃神に従う者、わたしに逆らって生きる者、エルサレムとユダに在ってわたしを拝み、マルカムとバアルへ誓いを立てる者を断つ。
主のいけにえの日が訪れたらば、高官も祭司も王族も、異邦人もすべてを罰する。敷居を跳び越える者、主の家を不法と偽りで満たす者を罰する。
エルサレムの西側の地区から悲鳴や泣き叫ぶ声がする。大きな崩壊の音が聞こえ、都のあちこちから助けを求める声があがる。
……主は幸いも災いもくれない、とぼやく酒飲みを、わたしは罰する。かれらの財産は奪われ、家は荒れる。が、建て直してもそこへ住むことはできない。ぶどう畑を整地して木を育てようとしても、実がなることはない。況やぶどう酒をや。
主の大いなる日はすぐそこへ迫っている。もはや何人と雖も逃れることはできぬ。その日は誰もが悲痛な叫びを喉の奥から搾り出す。苦しめ。盲目の人のように歩め。かれらはわたしに背いた。犯した罪の重さを知れ。かれらの血は塵のように地へ散り、臓物は排泄物の如く撒かれる。
主の憤りの日に全地は火で舐め尽くされる。恐るべき破滅が降りかかる。
恥を知らぬ国よ、集まれ。判決が出ぬうちに、来たれ。この地でまとめてお前たちを絶つのだから。
わたしを信じる人々よ。裁きに耐え、苦しみに耐えた人々よ。わたし主を求めよ。わが恵みの御業を求め、苦しみに耐えることを求めるがよい。終わりの日に、怒りの日に、あなたを守ってくれるだろうから。
「その日は憤りの日/苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日/闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。/城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい/角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。」(ゼファ1:15-16)
マルカムはヘブライ語で「かれらの王に」の意味。アンモン人の信奉する神ミルコムを掛けた言葉であり、またミルコムは過去に何度か名の出たモレクであります。イスラエルの神なる主を拝む一方でミルコムを、バアル同様にユダの王が崇めるようになった、というのがこの節のいわんとするところであります。
引用箇所のみならず「ゼファニヤ書」自体が黙示文学を想起させるものがあります。言葉や表現、描写の激しさということだけでなく、底を流れる思想にそう感じるのです。これまでの預言書も同様だったかもしれませんが、「ゼファニヤ書」を読んでいつもと違う感覚を抱いたことの一因はそのあたりにあるのかもしれませんね。
また、ゼファ2:1-3は第1章にて預言された破滅をまぬがれるためにも斯くあれかし、と民へ反省を促す箇所であります。
まだ「創世記」と「出エジプト記」前半など手附かずの箇所はあると雖も、いよいよ旧約聖書の終わりへとわれらは到着しようとしています。予定通りなら今月いっぱいで「マラキ書」を終わらせられるでしょう。
感慨を記すには勿論早いけれど、本ブログを開始した当初はこんな日が訪れるなんて夢想だにしませんでしたね。読み始めてからもう5年になるのか。この間、いろいろあったなぁ……。
カフェ・ド・クーリエにて原稿書き;モレスキンにエッセイを書いた。こちらについては「ゼファニヤ書」が終わったあとにお披露目予定。
会社のまわりにはカフェが多い。土地柄もあろうが、10軒強の店舗が集中している。或る種、僥倖である。
こうなったら<基地(ベース)>になる店を幾つか確保の上、ローテーションで回遊してゆけば原稿書きも捗るに相違ない――そんな夢想を弄んでいます。◆
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