第1370日目 〈ゼファニヤ書第2章2/2:〈諸国民の滅亡〉〉 [ゼファニヤ書]

 ゼファニヤ書第2章2/2です。

 ゼファ2:4-15〈諸国民の滅亡〉
 ペリシテ人の都、町は荒れ果てて捨てられる。滅びて、住む者は絶えてなくなる。モアブとアンモン人の国はイスラエル、ユダへの嘲笑と驕りのゆえに裁かれる。ソドムとゴモラの如く久遠に荒れ果て、一本の雑草すら生えぬ塩の窪地となる。その地を、ユダの生き残りが受け継ぐ。
 クシュも主の怒りの前に滅び、それは北に向かってアッシリアとニネベの都を討つ。かの地は往時の繁栄を留めぬぐらいに荒廃する。ここを行く者はあまりの変貌に驚き、口笛を吹く。そうして、目の前の現実を否定するかのように、自分がそんな災禍に巻きこまれることがないよう祈るかみたいに、広げた手を力なく横へ振るのである。

 廃墟を目にした異邦人がその様子をせせら笑う場面はこれまでも何度かお目にかかってきましたが、本章ではやはり廃墟を通りかかった異邦の旅人をしてこの災厄がわが身の上に降りかからぬよう願う様が描かれています。
 こうしたパターンは初めてでないか。かりにあっても覚えていないぐらいに少ない例である。このコントラストの妙は主の怒りの徹底ぶりを客観的に伝えるものであると共に、イスラエルの神であった主を畏怖する思いが諸国民にも浸透していることの証左と申せませんでしょうか。
 キリスト教が世界宗教となった今日の目で見れば、これも道理といえるのかもしれませんが、当時では事情も異なりましょう。当時は国境を越えて、人種を越えて、言語を越えて畏怖される神の存在は極めて異例であった。或る意味で異端というてよいかもしれぬ。本章に於いて異邦人が主の破壊の凄まじきゆえに廃墟となった町を見て災厄より逃れられるよう祈るのは、イスラエルの主に対する信仰が徐々に、主に貿易によって周辺諸国へ知られるようになっていったことを示しているのではないか、と、考えてしまうのであります。
 それにしましてもこの、旅人が廃墟――アッシリアの町々とニネベの都――を眺める光景は、なんと残酷で美しいことでしょう。まさに<詩>であります。◆

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