第1379日目 〈ゼカリヤ書第1章:〈序〉&〈第一の幻〉withこの世でいちばん嫌いなもの〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第1章です。

 ゼカ1:1-6〈序:ダレイオスの第二年八月に、〉
 ペルシア王ダレイオス1世の治世第2年(前520年)8月のことである。預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ、――
 往古(そのかみ)、主はユダヤ人に対して激しい怒りを降した。ゼカリヤよ、廃都エルサレムへ帰還した同胞(ユダヤ人)へわが言葉を告げよ。
 わたしに立ち帰れ。さらばお前たちへ立ち帰らん。再三の呼び掛けにも応じなかった父祖の轍を踏むなかれ。かれらは皆いなくなってしまった。天寿を全うするよりも忌まわしい終わりを迎えて、いなくなってしまった。預言者たちへ預けたわが言葉、わが掟は、かれらの心に届かなかった。
 わたしはかれらを、かれらが歩んだ道とその行いの業によって扱う。そう決めて、斯く行った。

 ゼカ1:7-17〈第一の幻〉
 同年11月(シェバトの月)24日、ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。8つの幻のうちの、最初の幻である。
 一人の人が赤毛の馬に乗り、谷底のミルトスの林のなかにいた。その背後には赤毛の馬、栗毛の馬、白毛の馬がいる。
 これはなにか、てふわたくしの訊ねに、主の御使いが促し、馬上の人が答えた。これらは主により地上を巡回するため遣わされたものである。かれは主の御使いにいった。われらは地上を巡回してきましたが、人々は皆やすらかに暮らしております。
 それを聞いた主の御使いは、主よ、どうしてあなたは70年もの間イスラエルとユダの人々に対して怒り、憐れもうとしないのですか、と尋ねた。
 ――すると主が、御自分の御使いに優しい言葉、慰めの言葉で以て語りかけた、――
 わたしは憐れみの気持ちを持ってエルサレムへ帰る。わが家をそこに再び建てさせる、と。エルサレムには測り縄が張られる。
 ゼカリヤよ、再び呼び掛けて、いえ。即ち、「わたしの町々は再び恵みで溢れ/主はシオンを再び慰め/エルサレムを再び選ばれる」(ゼカ1:17)と。

 主に代わって地上を警らする“巡回者”がゼカリヤの前に姿を現した。その巡回者のそばに立つ御使いこそ、ジークフリート・ヘルマンいうところの「解釈天使」angelus interpresである(『聖書ガイドブック』P160 教文館)。
 御使いはこのあとも現れて、ゼカリヤに幻の意味を説いて与える。これまでは主ご自身が預言者に関与して幻や預言の意味を与えるのが専らだったが、本書ではそれに代わる役割の者があって預言者へ積極的に関与してゆく。そんな小さなところに、本書の新しさを見出します。捕囚前と捕囚後という意識の変化が預言書の記述や表現に影響を落としているのかもしれませんね。
 70年はバビロン捕囚から解放までの大地の安息の70年を連想させます。また、エルサレムを計る測り縄云々は次章に出ますが、「エゼキエル書」40:3を思い出させます……その頃の思い出も同時に甦るのは致し方ないのかも。



 こう暑いと動くのも考えるのも嫌になりますね。余計な手間をかけるのを厭い、普段ならどうとも思わぬ自身の過ちすら、無性に腹立たしくなって一気にヒートアップする。挙げ句に流さずともよい汗を垂れ流し、己への怒りと責めを持て余す。そんな自分が甚だしく嫌いだ。それ以上に、甚だしく夏が嫌いだ。この季節だけでもどこか涼しげな海のそばか寒冷地で過ごしたいのであります。◆

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