第1387日目 〈ゼカリヤ書第11章2/2:〈悪い羊飼い〉with新たなる決意表明〉 [ゼカリヤ書]

 ゼカリヤ書第11章2/2です。

 ゼカ11:4-17〈悪い羊飼い〉
 主は屠るための羊を飼った。それを買った商人は誰の憐れみを受けることもない。この地の民を主は憐れまない。どの人の運命も隣人とその王の手に委ねられる。主はかれらを救わない。
 主は2本の杖を持つ。「好意」という名の杖と「一致」という名の杖だ。主はそれを手にして羊を飼う。一ト月の間に3人の羊飼いが退けられた。互いが互いに我慢できなかったのだ。主はかれらにいった、わたしはもうお前たちを飼わない、と。死ぬべき者は死ね、消え去るべき者は消え去るがよい、残りの者はたがいの肉を食らうことだ。
 「好意」という名の杖が折られ、諸国民との間に結ばれた契約が棄てられた。主は羊を飼った商人たちにいった、お前たちの目にこれが良きこととして映るなら、わたしに賃金を支払え、と。かれらは主に賃金として銀30シェケルを支払い、主はこれを受け取った。かれらによって値附けされて支払われた銀30シェケルは鋳物師に渡される。そうして主は、「一致」という名の杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りの契約を棄てた。
 「見よ、わたしはこの地に羊飼いを起こす。彼は見失われたものを尋ねず、若いものを追い求めず、傷ついたものをいやさず、立っているものを支えもせず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを砕く。/災いだ、羊を見捨てる無用の羊飼いたちは。/剣が、その腕と右の目に向けられる。/その腕は力を失い、右の目はかすむ。」(ゼカ11:16-17)

 本章に於ける「羊飼い」は宗教的政治的指導者を指す。
 銀30シェケル云々はマタ26:15、同27:9-10も併読を願う。

 わたくしにとって「ゼカリヤ書」のなかでいちばん難しいところでした。読めば読む程、というのは大袈裟ですが、さっぱり意味がわからず、なにをいわんとしているのかわからず、すっかり途方に暮れていた、というのが正直なところであります。未だ暗雲は晴れていないが、ノートが執れるぐらいには見えてくるものがあるだけ喜ぶべきでしょうか。



 以前のように時間を割いて、腰を据えて取り組み、書くだけの余裕がない。作り出すことはできてもそれが質を約束できるものでないのなら、これ以上の継続と維持は徒労と労苦と<大いなる時間>の無駄遣いではないだろうか。ふと、そう思うて投げ遣りな気分になることもある。
 自分でも情けなく思うよ。何年も読み、書いてきて、未だこの程度なのだから。
 でも、斯様に軟弱で約束も満足に守れないこと度々な本ブログであっても、どうやら楽しみにしてくださっている方々は頗る付きで多いらしい。アクセス件数がそれを証明している。時折届けられる悪態と、ものみの塔やエホバの証人からの過分なお誉めのお言葉とそれに伴う勧誘、過ちの指摘という衣をまとった人格攻撃に愉悦を見出している節のあるコメントには、憐れみを伴った無関心と無視を貫いて対処しようと思う。
 更新が遅くなってごめんなさい。◆

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