第1390日目 〈マラキ書第1章:〈イスラエルとエドム〉&〈正しい礼拝〉with3連休は暇である。〉 [マラキ書]

 マラキ書第1章です。

 ――これは託宣である。預言者マラキに臨んだイスラエルへの主の言葉――

 マラ1:1-5〈イスラエルとエドム〉
 わたしの愛をエドムは疑う。われらエドムに対してどのように愛を示してくれたのか、とかれらはいう。
 エドム/エサウよ、お前はイスラエル/ヤコブの兄である。しかしわたしはお前ではなく弟のヤコブを選んだ。わたしはお前を憎む。エドムの地を荒廃させ、エドムの嗣業をジャッカルの餌にする。お前たちが屈することなく国を建て直そうとしても、わたしはそれらすべてを打ち砕く。諸国民はエドムの地を悪の領域と呼び、お前たちを主の怒り(呪い)を永遠に受ける民と呼ぶ。
 「あなたたちは、自分の目で見/はっきりと言うべきである/主はイスラエルの境を越えて/大いなる方である、と。」(マラ1:5)

 マラ1:6-14〈正しい礼拝〉
 祭司たちへ。子は父を敬い、僕は主人を敬うものだ。果たしてお前たちはわたしを畏れ、敬ったことがあるのか。
 お前たちはわたしの御名を軽んじていながら軽んじてはいない、という。わたしに汚れた献げ物をささげておきながら汚れていない、という。それを総督へ献上してみよ、いったいかれは喜ぶであろうか。
 わが恵みが与えられるよう、ひたすら赦しを願うがよい。お前たちの偽りがこれらをもたらした。神殿の扉は閉ざされよ。わたしはお前たちの献げ物を喜ばない。それを受け入れることもない。
 わたしを知らなかった諸国民――日出づる処の国から日沈む処の国まで、そこへ住まうわが名を知らなかった諸国に民でさえ、いまやわたしの御名を崇めて香を焚き、清い献げ物をささげている。なのに、元からわが民であったお前たちは、主の食卓は汚れていても構わない、食卓の果実は軽んじられても構わない、という。
 祭司たちよ、それを冒瀆とはいわないか。汚れた献げ物を、どうしてわたしが受け入れようか。自分が養う群れのなかに献げ物とするべき清い雄の動物がいるのに、献げ物とすべきでない汚れた雄の動物を「清い」といって捧げる偽り者よ、呪われろ。
 わたしは大いなる王で、いまや諸国の民から畏れられている。

 為政者のお膝元が実はいちばん腐敗してあらゆる<悪>の蔓延る温床であった、とは、どうやら旧約聖書の時代にも通用する普遍的事実であったようです。それも第二神殿が再建されてそこへ奉職する祭司たちがその根源とあっては、もはや何をか況やであります。
 さりながら、特権を与えられていたり中枢にある立場の人が罹りやすい病気は、余程の覚悟と強靱さがなければ断固退けられぬものでもあります。祭司たちは治癒の難しい病の犠牲になってしまったのです。
 しかしそれは、かれらのなかにあった主を畏れ敬う気持ちが薄れ、自らの仕事に怠慢となり、民への責任を放棄したがゆえのことですから、なにも同情することはありません。 引用もしたマラ1:5ですが、なにぶん「マラキ書」が幾度もの精読を要求する書物であるので難しい箇所でもあるのですが、わたくしはこのように解釈しております。曰く、エドムは主がわれらイスラエル全国家の神の愛、力、御業がわれらに対してのみ示されるのではないことを、自分たちで確かめるべきである、と。――如何でしょうか。



 3連休は暇である。なにをしてよいものか、迷ってしまう。挙げ句になにもしないでぼんやり過ごす。
 原稿を書けばいい? やりました、それを済ませてしまうと子供時代の夏休みのように無限の時間が目の前に広がっているような気がするわけです。
 これが<夏休み>として得た休みであれば話は別ですが、今回はシフトの関係上突然生まれた3連休。仕事したくて堪らない。幸いなのは休みが今日(昨日ですか)で終わること!
 以上、「贅沢な悩みを打ち明ける」のコーナーでした。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。