第1393日目 〈マラキ書第3章2/2:〈正しい者と神に逆らう者〉&〈主の日〉with昨日のこと。〉 [マラキ書]

 マラキ書第3章2/2です。

 マラ3:13-18〈正しい者と神に逆らう者〉
 あなたたちはわたしに非道い言葉を語っている。あなたたちはそれでいながら、どのような非道い言葉を語っていますか、と訊く。あなたたちはこう語っている――主の戒めを守ったり主の御前を歩いてなんの益があるだろうか、われらは悪事に手を染めてなお栄え主を試しても罰せられずにいる高慢な連衆を<幸い>と呼ぼう。
 神に逆らう者らが斯く曰うその一方で、こんな風に主を畏れ、主の目に正しいと映る行いに勤しむ人らがいる、――「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。」(マラ3:16)
 その日、わたしはかれら正しい者をわが宝として迎えよう。人が自分に仕える人を憐れむように、わたしはかれらを憐れむ。その日、かれらは正しい者と神に逆らう者、憐れまれる者と憐れまれない者の区別を知るだろう。

 マラ3:19-24〈主の日〉
 高慢な者、悪を行う者らを藁(わら)のように燃えあがらせ、根も枝も残すことなく燃やし尽くす日――炉のように燃える日、その日、主の日がくる。
 わが名を畏れる者は安心するがよい。あなたたちにはその日、義の太陽が昇る。その翼には癒す力がある。あなたたちは喜びにあふれて躍り回る。わたしが備えているその日、あなたたちは神に逆らう者を踏みつけ、あなたたちの足の下でかれらは灰になる。
 「わが僕モーセの教えを思い起こせ。/わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。/見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日がくる前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(マラ3:22-23)
 ――預言者エリヤは父の心を子に、子の心を父に向けさせるようにする。なぜならば、その日わたしが来て(臨んで)、破滅を以てこの地を撃つことがないようにするためだ。

 「我々は御名、唯一の父を持っているではないか。/我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ兄弟が互いに裏切り/我々の先祖の契約を汚すのか。」(マラ2:10)

 「マラキ書」を読んでいると預言書らしからぬものを感じる、と「前夜」にて書きました。正しい信仰とはなにか(どのようなものか)を問い、それに立ち帰るための術を説いている。明らかにするわけではありませんが、少なくともその手掛かり、きっかけになる事柄を本書は提示しております。
 他の預言書と本書が異なる部分を見せるのはそんな点であり、その基となるのが読書の過程でたびたび見てきた神と(二心ある)民の問答、論争であります。信仰を明らかにするためには、本質の追究と虚偽の修正を果たすためには、斯様な問答、論争は有効な手段といえるのかもしれません。「マラキ書」はそう考えさせてくれる点で他とはちょっと趣の異なった書物である、といえましょう。これをあともう何歩か進めれば、後の世の所謂<信仰問答>となるように思います。
 エリヤがどれほど大きな存在であったか、かれの登場シーンを読んでいた頃はまったく気が付きませんでした。旧約聖書に登場した数ある預言者のなかでもいちばん影響力と訴求力を持った人物であるかもしれません。
 さて、ここで「遣わされる」と預言されるエリヤは新約聖書で再び言及されます。マタ11:11-14でイエスは群衆を前に洗礼者ヨハネについて、「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。(中略)あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」と語ります。イエスは洗礼者ヨハネをエリヤである、という。が、ヨハネはそう呼ばれることを拒んだ。ヨハネはあなたはエリヤの再来か、とエルサレムのユダヤ人たちは問うた。ヨハネは答えて、――否、わたしはわたくしはエリヤではない、メシヤでもあの預言者でもない、と。
 旧約聖書から新約聖書へ時間が移ってゆくなかで、エリヤの待望説がどれほど高まり、エリヤが来たるメシヤであるかもしれない、という願いがユダヤ人の中に生まれていたか、それを示すエピソードの一つとして、いまはこの程度に発言は留めておこうと思います。まだ聖書読書ノートは新約聖書に入っていないことでもありますし、すべてはそのときに、というわけです。

 今日の「マラキ書」第3章を以て旧約聖書という書物は終わります。顧みれば旧約聖書を読み出して5年、ようやく辿り着けるかどうか分からない場所に到達できたことに、喜びも感じますがそれ以上にいまは疲労とモヤモヤ感が残っています。
 モヤモヤ感とはなにか、といえば、他ならぬこの「マラキ書」を果たして自分はちゃんと読めていたのだろうか、それに基づいて書かれる読書ノート/本ブログの原稿が今一つ満足のできていないものである点に起因する。これまでにも似たようなことは申しあげてきましたが、「マラキ書」ノートだけは機会を設けて改訂しなくてはならないな、と思うております。
 いずれにせよ、読者数を徐々に増やしつつ、記事を微増させつつやっとここまで来られたのは、中断期間も変わることなく読者であり続けてくださった諸兄のお陰であることはいうまでもありません。この日まで本ブログを支えてくださって、本当にありがとうございました。
 が、お察しのように未だ「創世記」と「出エジプト記」前半は記事としてお披露目できておりません。「マラキ書」を終えたいま、かねてより公約していた通り、改めて旧約聖書最初の書物から読書し、そのノート(感想)を本ブログにて公開してゆくことを約束します。皆様には改めて読者として楽しんでいただければ幸甚と存じます。
 明日は安息日とし、「創世記」の開始は今月9日午前2時を予定しております。



 以前の職場の人たちと深夜に至るまで酒宴しておりました。ブログの定時更新は適わなかったけれど、楽しい一時を過ごすことができました。久しぶりの憧れの人との再会、その人とカラオケ店で過ごした始発電車が動くまでの数時間。もう会うことのないだろう人だけれど、なにものにも代え難い思い出が一つ増えた。◆

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