第1443日目 〈創世記第32章3/3:〈ペヌエルでの格闘〉with Evernoteが楽しい。〉 [創世記]

 創世記第32章3/3です。

 創32:23-33〈ペヌエルでの格闘〉
 その夜、ヤコブは妻と側女と子供たちを連れてヤボクの渡しを渡った。先に皆を渡らせ、次に荷物を。ヤコブは一人あとに残ったのだが、そのときである、かれが何者かと夜明けまで格闘したのは。相手はヤコブと組合い、勝てぬと思うてか、ヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打った。それは格闘中に外れた。
 もう去らせてくれ、夜が明けてしまう、と、相手――その人がいった。否、とヤコブは拒んだ。放しません、祝福してくれるまでは。相手が、お前の名はなんというのか、と訊いた。ヤコブは答えた。わたしの名前はヤコブです。
 「その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』
 『どうか、あなたのお名前を教えてください』とヤコブが尋ねると、『どうして、わたしの名を尋ねるのか』と言って、ヤコブをその場で祝福した。
 ヤコブは、『わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている。』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」(創32:29-31)
 ――ヤコブがペヌエルを発ってヤボクの渡しを渡ろうとしたとき、太陽が彼の上に昇って大地を照らした。そのときのかれは腿の関節が外れていたため、足を引きずっていた。このことが理由となって、いまもイスラエルの人々は腿の関節の上にある腰の筋を食べない。

 ようやくここでイスラエルという名の由来が明かされましたね。「神は闘う」或いは「神と闘う」がその意味。<ヤコブではなくイスラエルと呼ばれる>というのは、このあと創35:10でも繰り返されます。
 神の顔を見たのに生きている、というヤコブの台詞は、出33:11でのモーセの台詞と重なります。本来は神の顔を見ると死ぬ、といわれていました。顔を合わせてなお生き存える者は即ち選ばれた者であるのかもしれません。
 ヤコブが格闘する相手の名前を尋ねようとした場面については、デレク・キドナー著ティンデル『創世記』(いのちのことば社)に「名前は、その名前の持ち主の性格を示す可能性があると見なされている。自分の名前を言うことは、時には自分自身を明らかにする行為となりうることがあった」(P213上段)とあることをご紹介しておきます。
 なお、今日出勤前に立ち寄ったカフェで漫然と「エレミヤ記」を読んでいたら、エレ31:19で語られるエフライムの嘆きの表現が、本挿話を念頭に置いての表現であるように感じました。なお、同じ「エレミヤ記」の同じ章には、ラケルが息子たちのゆえに泣いている、という文言も見えます。



 最近、Evernoteが楽しくて仕方ない。
 取り敢えずのものから必携のものまで、タイトルさえちゃんと付けておけば、放りこんでおくだけで結構な分量の情報が蓄積できる。プライオリティをタイトル覧に表示しておくと勝手も良くなることに気が付き、ただいま鋭意編集中。
 望むべくはノートがそれぞれカテゴライズできて、カテゴリ毎にソートが出来るようになればなおベターなのだが、もしかするとわたくしが知らないだけで出来るようになっているのかな。◆

共通テーマ:日記・雑感