第1466日目 〈創世記第47章:〈ファラオとの会見〉、〈ヨセフの政策〉&〈ヤコブの遺言〉with飼い慣らされた犬になろうとも、……〉 [創世記]

 創世記第47章です。

 創47:1-12〈ファラオとの会見〉
 ヨセフはファラオに、父と自分の兄弟がカナンから辿り着いた、と報告した。ファラオはさっそく宰相ヨセフの縁者を御前に召した。
 まずはヨセフが選んだ5人の兄から。お前たちの仕事はなにか、とファラオが訊いた。兄らは事前に弟から教えられていた通り、自分たちは羊飼いです、と答えた。飢饉のため、カナンにはもう羊に食べさせる牧草がありません。どうかわたしたちをゴシェンの地に住まわせてください。
 ファラオが諾い、ヨセフにいった。この国のことはすべてあなたに任せてある。あなたの父や兄弟が住むにいちばん適していると考える土地を与えよう。一族に有能な者がいるならその者にわたしの家畜の監督を任せよう。ファラオはヨセフにそういった。
 次に父ヤコブがファラオの前に立った。ファラオはヤコブに、あなたは御年何歳になられるのか、と訊いた。ヤコブは、130歳になります、と答えた。「わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(創47:9)
 ――ヨセフはファラオの命により、父ヤコブと兄弟たちにエジプトで最良の土地を与え、そこをかれらの所有とした。そこはゴシェン地方で最も良い場所であった。町は出エジプトの時代までの間にラメセスと名附けられる。ヨセフは父と兄弟たち、父の家族の者すべてを扶養した。

 創47:13-26〈ヨセフの政策〉
 飢饉はますますひどくなった。既にカナンに食糧はなく、エジプトにヨセフが管理する穀物があるだけだった。人々はそれを求めるため銀を支払い、ヨセフはそれをすべてファラオの宮廷に治めた。
 やがて貨幣であった銀は尽きた。すると人々がヨセフへ嘆願した。食べるものをください、見殺しにされるおつもりですか。しかし、もう支払うべき銀はないのです……。これに応えてヨセフはいった。ではあなたたちの家畜を食糧と引き替えよう。人々はそうした。
 次の年、穀物の代価となる家畜がいなくなった。人々がヨセフへ嘆願した。どうかわれらをファラオの奴隷とし、農地を買い取り、穀物の種を与えてください。「そうすれば、わたしどもは死なずに生きることができ、農地も荒れ果てないでしょう。」(創47:19)
 ヨセフはそうした。よってエジプト中の土地はファラオのものとなり、エジプト領内の人々は皆ヨセフの奴隷となった。かれは、ファラオの土地で収穫された作物の4/5は民のものとし、残り1/5はファラオに治めることを、エジプトの農業の定めとした。が、祭司は別である。かれらはファラオからの給料で生活しているため、敢えて農地を差し出す必要がなかったためだ。従ってそれがファラオのものとなることはなかった。

 創47:27-31〈ヤコブの遺言〉
 ヤコブ即ちイスラエルはゴシェンの地に住み、そこで憂うことなく満ち足りた日々を過ごした。かれはエジプトの地で17年生きて、147歳で逝去した。
 かれは死ぬ少し前、ヨセフを呼んで、いった。息子よ、わたしをこのエジプトに葬ることだけはやめてくれ。わたしが永遠の眠りに就いたならこの国から運び出して父や祖父、妻らが眠るマクペラの洞穴に埋葬してほしい。ヨセフよ、慈しみとまことを以て誓ってくれるか。
 もちろん、とヨセフが答えた。イスラエルは感謝をささげた。

 ヨセフはその政策ゆえにエジプトの人々を(少なくとも名目上は)奴隷とし、結果的にかれらを救った。飢饉の時代にあってそれは良い方向へ転がった。が、飢饉の時代が遠い過去の出来事となるにつれて記憶は薄まってゆく。往時の記憶が風化し、いつしか忘却されて世人の知らぬところとなれば、却ってこのヘブライ人の執った策は裏目に出たのではないか(太平洋戦争を思い起こせ、3.11を思い起こせ)。
 つまり、エジプト人の共同体のなかで蓄積された心的抑圧、鬱屈した思いが反ヨセフ、反ヘブライの感情に結び付くことはなかったか。<反旗を翻す>とは大仰な表現かもしれぬが、どこかの時点でエジプト人はヘブライ人(イスラエル民族)を蔑んだりするような事件が頻発するようになったのではないか。反感が事件を起こし、時代風潮を形成してゆく(今日の日本と韓国、中国に置き換えればわかりやすいと思います)。それの行き着いた先が「出エジプト記」冒頭で語られる、ヨセフの執った策を知らないファラオの登場とそれによって激化した(と覚しき)反ヘブライ感情/施策であった、と考えられます。
 ――正しいところはどうだったのか、誰にもわかりませんが、わたくしのような空想家には記述の背後にある人々の生活や感情を想像するのが、とっても楽しいのであります。



 しばらく仕事の帰りに病院通いを続けて思うたのは、悔いなく生きよう、という単純かつ困難な一事。
 風車のゲンさんのように「どんなことがあろうと笑って生きようと思うのだ」とは胸を張っていえないのが残念ですが、組織に飼い慣らされた犬になろうとも自分の足で大地に踏ん張って立ち続けることはできる。それは即ち、自分自身を律した生き方、自分を決して貶めない生き方だ。
 北極星はいつだって天の同じ位置にある。生きるとはまわりの闇に惑わされることなく、北極星を見失わぬよう歩き続けることだ、と、わたくしは信じております。◆

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