第1488日目 〈出エジプト記第12章1/2:〈主の過越〉with町の記憶が消えてゆく〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第12章1/2です。

 出12:1-28〈主の過越〉
 最後に降る災いからイスラエルが免れるにはどうすればいいか。――それを教える主の言葉。
 ・この月を一年の初めとし、正月とせよ。
 ・家族ごとに子羊を用意せよ。それは傷のない1歳の雄でなくてはならない。
 ・子羊が用意できなければ山羊でも構わぬ。
 ・羊或いは山羊はその月の14日まで生かしておくこと。
 ・その月その日の夕暮れ刻、共同体の会衆が皆でそれを屠り、その血を取れ。
 ・犠牲の血をイスラエルの人々の家の入り口にある2本の柱と鴨居に塗れ。
 ・同じ日の夜、焼いた(犠牲の)肉と、苦菜を添えた酵母なしのパンを食べよ。
 ・羊か山羊の肉はどの部位も残さず食べよ。余り物は翌日焼き棄てよ。
 ・肉とパンを食べる際は腰帯を締めて靴を履き、杖を手にして、急いで食べよ。
 主の曰く、――
 「これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭として祝い、代々にわたって祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。
 七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。最初の日に聖なる集会を開き、第七日にも聖なる集会を開かねばならない。この両日にはいかなる仕事もしてはならない。ただし、それぞれの食事の用意を除く。これだけは行ってもよい。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして行わなければならない。」(出12:11-17)
 ――モーセはイスラエルの長老全員を集めた。そうして主の言葉を伝え、斯く行うよう命じた。続けて、イスラエルはこのことを子孫に伝えて永遠に守らなくてはならない、といった。また、主が与えてくれると約束した嗣業の地に入った後も、この儀式を守らなくてはいけない。後の世代の子供たちにこの儀式の意味を訊ねられたら、「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われた」(出12:27)のだよ、と教えてあげなさい。
 民はこれを聞いてひれ伏して礼拝し、いまモーセとアロンを通じて語られた言葉を行うため、皆、自分の家に帰っていった。

 黙して傾聴せよ。わたくしが申し上げられるのは、その程度です。なんの感想や意見が必要でしょう?
 ヒソプという植物が出12:22にありますが、これは清めの儀式などに用いられるシソ科の植物。イスラエルの山野に自生し、『新エッセンシャル聖書辞典』に拠れば「夏から秋にかけて小さな淡紫色のくちびる状の花をつける」(P812)とのことであります。ダビデ王が詩にこの植物のことを歌っております(詩51:9)。



 子供の頃から馴染み親しんだ風景が消えてゆくのは淋しいものであります。
 街並みがいつまでも変わらないなんてことは望んでも不可能なのですが、なんだか自分の思い出が奪われてゆくような気がして、やるせないことこの上ない。嗟嘆しつつ、壊されてゆく過去を傍観するしかないのですね。
 再開発の名を借りた合法的な破壊行為に対抗する、フィニィの小説のような不思議な力がこの町にあれば良いと思う。再開発の済んだ端から転居してくる余所者が我が物顔でのさばり、秩序と落ち着きを奪い去ることもないのにな……。◆

共通テーマ:日記・雑感