第1489日目 〈出エジプト記第12章2/2:〈初子の死〉、〈エジプトの国を去る〉&〈過越祭の規定〉withがんばりますよ!?〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第12章2/2です。

 出12:29-36〈初子の死〉
 真夜中、主はエジプトの国ですべての初子を撃った。身分の貴賤に関わらず、エジプト人で子のある家庭から初子が撃たれた。国の遠近から大きな叫び声があがり、夜半の静寂を乱した。
 これを承けて遂にファラオがモーセとアロンを召し、とっととこの国から出てゆけ、民のすべてと家畜のすべてを連れて望み通りにこの国を出てゆけ、と命じた。エジプト人はこれ以上の災難が起きぬうちに、と、国内に寄留するイスラエル人に出発を急き立てた。
 このとき、イスラエルの民は酵母の入っていないパンの練り粉とこね鉢を携え、エジプト人には金銀の装飾品や衣類を求めて贈られた(かれらは斯様にしてエジプト人の物を分捕り品としたのである)。

 出12:37-42〈エジプトの国を去る〉
 遂に――遂にイスラエルの人々はエジプトの国を去る。そも最初の寄留から430年後のことだった。ちょうど430年目の日、かれらはラメセスからストコに向かって出発した。一行は総勢約60万人。但しこれは壮年男子の数であり、妻子は除いてある。これに雑多な人々が加わった。
 その瞬間の訪れはある意味、突然であったので、イスラエルの民は道中の食糧をまともに準備できなかった。件の酵母の入っていないパンの練り粉とそれ用のこね鉢だけを携え、肩に担いだが精々である。
 その日、主の部隊の全軍がエジプトを出発した。「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。」(出12:42)

 出12:43-51〈過越祭の規定〉
 主の過越を祝う過越祭の掟について、主がモーセとアロンに語ったこと。
 ・外国人や寄留者は過越の犠牲を食べることはできない。
 ・但し、割礼を受けてイスラエルの民と同じうなれば、、食べることができる。
 ・一匹の羊は一つの家族で食べ、肉の一部を持ち出すこと、その骨を折ることは駄目。
 ・過越は、イスラエルの共同体全体で祝わなくてはならない。
 ――人々は皆、モーセとアロンを通して主が語ったこれらのことを守り、従った。

 イスラエルは目的を果たした。最後の大きな災いが決定打となった。イスラエルにとって過越は感謝の祭りであろうが、エジプトには悪夢以外のなにものでもない。エジプトの歴史に出エジプトは記されていない、といいます。
 確かにイスラエルの出国はエジプトの為政者にとって不名誉な出来事でありましょう。と同時に、思い返すも忌まわしい出来事がそれに深く関わっているとなれば、歴史を隠蔽し闇に葬ることも当時に於いては是でありましたでしょう。歴史の記述とは起こった出来事をすべて正しく記すものである、というのは、今日を生きるわれらの勝手な思いこみでしかないことを、この事例を契機にして、よく肝に銘じるべきかもしれません。
 イスラエルの民以外で過越の犠牲を食べられる者については出12:43-45に、過越祭を祝える者は出12:48-49に、それぞれ記されております。
 ――荒れ野に出たイスラエルは飲み水の不足と食糧の乏しさに不満を募らせ、不平を口にし、モーセを責めるようになります。それが慌ただしくエジプトをあとにすることで満足に食糧も水も用意できなかった、ということが、〈エジプトの国を去る〉で説明されています(出12:39)。荒れ野を彷徨っている場面を読むときに思い出していただければ嬉しいです。



 2013年は一つの区切りがついた年なので、来年は<前進>をテーマに過ごしたいと思う。
 満身創痍になるのは承知している。それでも前に進むしかないときって、ありますよね。もう立ち止まったりしない。たとえ孤立無援になろうとも、長く続いた哀しみの末に生涯を終わることになったとしても、プラスマイナス0の人生を送るのだ。<君>はいらない。
 せっかくこうして生まれて来られたんだもの、なにかを残せなくても生まれてきて良かったな、と最後に思う人生を過ごしたい。LOVEがあふれ出すEVERYDAYが舞い降りなくても、ふん、淋しくなんかないもんネ。SMAP「This is love」聴いてがんばるモン!?◆

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