第1492日目 〈出エジプト記第15章:〈海の歌〉&〈マラの苦い水〉with本当にここまで来られた!〉 [出エジプト記]

 出エジプト記第15章です。

 出15:1-21〈海の歌〉
 このことがあって後、イスラエルの民はこの御業を起こした主を讃える歌を唄った。エジプトを海の藻屑と為さしめた主に感謝し、威厳と力と慈しみを以て民を導く神なる主を讃美する歌を。
 アロンの姉なる女預言者ミリアムが、彼女に続いて女たちが、小太鼓を手に取って踊りながら唄った。威光を示して追っ手を海へ沈めた主を讃える歌を。

 「主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。/誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか。」(出15:11)
 「あなたは彼らを導き/嗣業の山に植えられる。/主よ、それはあなたの住まいとして/自ら造られた所/主よ、御手によって建てられた聖所です。/主は代々限りなく統べ治められる。」(出15:17-18)

 出15:22-37〈マラの苦い水〉
 荒れ野に入って3日、一滴の水を得ることなくイスラエルは進んだ。ようやく到達したマラで得た水は、苦くて飲用に耐えられなかった。マラとは<苦い>という意味である。ゆえに民はモーセに不平を口にし、モーセは主に祈った。主が一本の木を示したのでそれを水へ投げこむと、苦かった水は甘くなった。
 そのマラの地で、主はモーセに掟と律法を与える。また、かれは試される。そうして、いった、――
 「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病いをあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」(出15:26)
 ――主により導かれる民の行く手には、エリムというオアシスの町があり、かれらはそこへ宿営した。

 主を讃え、主に感謝する一方で、間接的に主に対して反感を示し、その決定に異を唱えるようになったイスラエルの民の姿が、まるで合わせ鏡のように語られる章であります。偶然とはいえ、イスラエルの過去が集約され、栄光と悲惨に彩られた未来を暗示する言葉の並べられた第15章で本ブログの旧約聖書編が終わることは、なにやら皮肉と感じられてなりません。
 マラの事件は後々まで尾を引くことでもありますので、<こんなことがあった>ぐらいに覚えておけばよいと思います。



 ――12小預言書が終わり次第、聖書読書ブログの欠落部分を補う旨、予告した。あの瞬間は本気でも、不安だった。本当にそこまで辿り着くことができるのか?
 でも、なんとかここまで来られた。偏に読者諸兄の声なき支持のお陰と勝手に思うております。ありがとうございました。この瞬間、この文章を書いているのが奇跡のようだ。
 残すはこのあと約4年を掛けることになるであろう、続編と新約。それでも旧約とほぼ同じか少し足りない分量です。ここまで来たら「ヨハネの黙示録」の最後の節を目指して前進しましょう。
 この命が終わるのはそれまで待ってほしい。それまで迎えに来るな。◆

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