第1493日目 〈「レビ記」前夜-2withさんさんか、行く末について考える。〉 [レビ記]

 だいたい昔から読み継がれてきた書物には一ヶ所ぐらい、壁となる部分があるように思います。壁というのは読書の挫折を促しかねない箇所をいう。
 聖書にまつわるブログなのでそれに即していえば、たとえば新約聖書に於いては「マタイによる福音書」冒頭イエスの系図、旧約聖書続編についていえば馴染みなきゆえの全編、そうして旧約聖書については「歴代誌」上は第9章まで続く諸系図、などでありましょうが、就中「レビ記」は読者の意欲を砕くにじゅうぶんな破壊力を持ったものといえましょう。「レビ記」を以て聖書読書から遠ざかる人は多いようです。実際、キリスト者であっても教会関係者や研究者を除けば「レビ記」を通読している人は少ない様子であります。
 かといって、では「レビ記」を飛ばして構わないか、といえば、答えは断固として<否>であります。たしかに腰を据えて読んだり、神の言葉を一つ一つ噛みしめて味わう、という性質の書物ではない。わたくしは初めて読んだときから本書を、(旧約)聖書に於ける六法、と呼んでいますが、決して間違った呼称でないと思います。法律の専門家でない限り、六法を読み通すなんてことはないでしょうからね、それと同じです。
 「レビ記」は献げ物や祭司の務めなどに関する規定を取り纏めた書物。煩雑といえば煩雑ですけれど、聖書を読んでいると「レビ記」の記述に基づく場面、表現が折りにつけ登場することに気附かされる。いま思い浮かぶこととしては、王下15:5(代上26:20-21)にて南王国ユダの王アザルヤ(ウジヤ)が重い皮膚病に罹ったとき隔離された旨、記されますが、隔離の報告の後ろにはレビ13〈皮膚病〉についての規定があるとわかれば、聖書という(本来なら)日本人には縁薄い古典の読書が愉しくなるのは請け合いです。
 聖書の他の書物と同じような濃度で「レビ記」を読む必要はないでしょう。ざっ、と通読すればじゅうぶんです。が、細々した記述に匙を投げて一書丸々を読み飛ばすようなことはしてはいけません。せっかくの読書に瑕疵を残すのは勿体ない。最後の章、最後の節まで辿り着くことが先決。ブログという手段に助けられたとは雖も、取り敢えず「レビ記」を読み通すことができたわたくしは、そう考え思うのであります。
 <モーセ五書>の第3番目の書物、「レビ記」がいつ、誰によって書かれ/纏められ、いまの世にわれらが読むような形となったのかはわかりません。本書は所謂〈祭司文書〉と〈神聖法典〉の2つのパートで構成されますが、それぞれ成立時期は捕囚期前後とされています。性格の異なる両者が一書のなかに並存している点は、「レビ記」成立の過程に手掛かりを与えている様子ですが、本ブログはそのあたりへ踏みこむのは慎重に避けることと致しましょう。
 〈祭司文書〉と〈神聖法典〉に関しては、岩波版旧約聖書Ⅱ『出エジプト記・レビ記』の「レビ記」解説に詳しいので、興味のある方は是非の一読をお奨めします。
 本ブログでは「出エジプト記」後半と同様、「レビ記」の記事を5年前に公開しております。第0037日目から第0070日目が該当します。いまより更に未熟なものであり、かつ現在とは分量も体裁も格好も違うけれど、明日より一日一章(一記事)ずつ、読者諸兄にはお目通しいただければ幸いであります。



 聴力を失った世界で生き延びる方法を考えておこう。誰かの助けは必要だが、憐れみを施されたり、上辺(うわべ)の同情を押し付けられるのは嫌だな。◆

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