第1512日目 〈旧約聖書続編・前夜〉 [始まりのあいさつ]

 お待たせしました、という台詞がどこまで通用するのかわからないけれど、お待たせしました、本日より旧約聖書続編の読書を始めます。記念すべき初日は通例通り<前夜>、概ね第1509日目で続編について触れてもいますが、今日はそこで取り挙げられなかった話題を。ちなみに本稿の初稿はラージ・サイズ、方眼タイプのモレスキンで書いていますよ。
 続編に収められる書物の殆どが捕囚期以後の成立とされ、旧約聖書の時代を背景とするものであったり旧約収載の書物のヘブライ語以外の言語による翻訳であったりすることは、既に述べました。続編を純粋に旧約と新約の間をつなぐものとして受け止めるならば、第一・第二「マカバイ記」だけがこの空白期を背景とする書物であることも。
 では、そも旧約聖書続編が成立したのはいつか。――否、成立という表現は誤りだ。それは個々の書物について用いられるべき語であり、旧約聖書続編については「編纂されたのはいつか」とされるべきかもしれぬから。
 新共同訳は続編翻訳の底本にギリシア語旧約聖書を採用している(ゲッティンゲン研究所)。但し、「エズラ記」(ラテン語)のみウルガタ版聖書、即ちラテン語訳聖書に拠る云々。そうして続編に収められる個々の書物は、70人訳(ギリシア語訳)によって当時ギリシア語圏に離散(ディアスポラ)していたユダヤ人社会に流布していった。
 むろん、新共同訳・旧約聖書続編に収められていない書物も多くある。それらが如何なる基準によって棄てられ、また収められた書物がどんな基準をクリアして採られたのか、その詳しいところはわからない。
 ただ、プロテスタントではルターがドイツ語訳聖書を作る際、70人訳やラテン語訳を退けてヘブライ語訳に拠ったことから、カトリックがギリシア語訳正典として4世紀に認めた旧約聖書続編に収められる各書物については、あくまで旧約聖書の付録であるというスタンスは崩さなかった様子だ。
 従って――というかなんというか――今日われらが日本語で読める続編の各書物は、時間の淘汰によってカトリック、プロテスタントの一部の聖書のなかで生き残り、読まれてきたものが纏められたのであるから、最早<編纂>という表現すら誤りである、といえるかもしれない。
 聖書は多くの言語で読まれてきた。諸訳によって収められる外典もまちまち、こちらにはあってあちらにはない、というケースはままあるだろう。いまわれらが新共同訳で読める続編の各書物は決定ではない。永劫にこれらの書物のみが旧約聖書続編として括られてゆくわけではない。少なくともこれがすべてであり、完結するものではないことを留意しておく必要はあるだろうなぁ。
 が、わたくしは研究や信仰のために聖書を読んでいるのではない。聖書読書は、本ブログのリードにもあるように婚約者とテロ犠牲者の思い出と追悼が主であり、一個の文芸作品として時には史書として、淡々と読むに過ぎぬ。編纂過程にいらぬ関心を抱いて馬脚を現すのは、単なる好奇心に動かされてのことだ。学生時代に『古事記』偽書説を支持してその成立を検証した卒業論文を書いたのが、この好奇心の遠因としてあるであろうことは否定できない。
 ――では明日から旧約聖書続編を読みます。クリスマスの頃に全巻の読了が出来ていたら良いな、と思うております。◆

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