第1522日目 〈トビト記第9章:〈ラファエル、ラゲスへ旅する〉with村上春樹『アフターダーク』を読みました。〉 [トビト記]

 トビト記第9章です。

 トビ9:1-6〈ラファエル、ラゲスへ旅する〉
 婚礼の席の最中、トビアはアザリアを呼んでいった。いまから従者を伴ってラゲスへ行き父の財布を受け取ってきてください、そうしてわたしが自分の婚礼の席にあなたを招きたがっていると伝えてください。
 アザリアはそうした。かれは4人の従者と2頭のらくだを連れてエクバタナをあとにし、本来の目的地であるラゲスへ一路向かった。かの地でアザリアはガバエルに会い、証文を渡してトビトの財布を中身もそのままで受け取り、かつガバエルを自分の婚礼の客人として招くトビアの言葉を伝えた。
 アザリアはガバエルを伴ってエクバタナへ戻ってきた。トビアはガバエルの姿を見ると立ち上がり、これを出迎えた。ガバエルが感激して曰く、あなたのお父さんは本当に立派で善き施しをする方でした、あなたも劣らず立派な人です、どうか主があなたとお嫁さんに祝福を与えてくださいますように、あなたはわたしのいとこトビトにそっくりです、と。
 そうして祝宴は続いた。

 ガバエルはトビトの親戚であった。その意味で「いとこ」というか。それとも血を同じうする同族ゆえの親近が斯くいわせるか。或いは、「兄弟」という語に代表される如く親しみをこめた呼び掛けに過ぎぬか。
 これまでに翻訳された聖書のすべてへ目を通したわけでは(勿論)ありませんが、ときどき聖書の翻訳には迷いといいますかブレがあるように感じてなりません。逐語訳を旨とするにしても、日本語の選択に関してはある程度まで統一性を持たせるか、言い方は悪いけれど恣意的な翻訳がされても良いのではないか、と折節思うことがあります。なぜならば翻訳とは窮極の読書であるからに他なりません。



 村上春樹『アフターダーク』を昨晩読み終えました。一言でいうなら、わたくしはこの小説が好きです。偏愛は無理だけれども抗弁はできるぐらいに。でも、ここではしない。
 <視座>であるカメラ・アイの使い方にはもうちっとこなれた感じが欲しかったけれど、全編をこれで貫くだけの馬力にはとても感心した。用い方を知らず誤ると目も当てられないぐらい下手な作品に仕上がりかねませんからね。少なくとも描写の仕方という点については、マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』とキング&ストラウブ『ブラック・ハウス』の足許には及ぶであろう一編として、わたくしのなかには残りますね。
 この小説に関しては賛否両論あり、著者自身インタヴュー本で、批評家からも読者からも<否>の意見の方が多い作品である旨編集者に知らされた殆ど唯一のものである、と申しておりますが、わたくしとしては村上春樹の新しい境地を見せていただき、とても幸福な読書時間を過ごさせていただいた、と感謝したいぐらいである。
 たとえばアマゾンのレヴューでは、<否>の意見を叩きつけてもその根拠については明確にできぬ方が多く、単純に面白くない理解できないの一色で、なにやら情けない思いだ。どうしてだろう、なぜ自分はそう思ったのだろう。もしかすると自分の器がこの小説を満たすだけの容量を持っていないだけではないのか。であるならば、もう少しいろいろ名作や古典といった文学のみならず、他のジャンルにまで手を広げてからもう一度この小説に立ち帰ってみよう、とか、そうした自分を大きくする発想はないのかな。
 そうした意味で『アフターダーク』は読者の想像力のみならず、読み手の器の大小を試される小説といえましょうか。
 わたくしは最後、マリとエリの姉妹が朝日の昇るなか一つ布団で休む場面に限りない救いを覚えた。エリをテレビのなかから監視するマスクの男は、監視役としての役を務めているように読める。すべてはたった一晩、ほんの数時間の間に起こった出来事。これらすべてが完結する時間のなかに放りこまれたら、或る意味悲劇でしょう。
 物語のすべてが完結する必要はない。登場人物のその後なぞ明記されなくてもよい。事象の説明を懇切丁寧にされねば読んだ気になれないか。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。