第1557日目 〈ユディト記第7章:〈ベトリア包囲作戦〉&〈ベトリアの危機〉with「ユディト記」ノート舞台裏;こんなことに興味持つ人いるのかな?〉 [ユディト記]

 ユディト記第7章です。

 ユディ7:1−18〈ベトリア包囲作戦〉
 アキオル追放の翌日、アッシリア軍の総司令官ホロフェルネスは軍を南に進めた。歩兵17万、騎兵1万2千を中心とした軍勢がユダヤ人攻撃のため、エスドレロンの平野の南に横たわる山岳地帯目指して進んだ。その夜、アッシリア軍はベトリアの町に近い谷にある泉のそばで野営した。
 次の日、ホロフェルネスは様子を伺うユダヤ人の前で、騎兵に山地をまわらせて斜面に作られた道をすべて検分させた。また、あちこちの水源を調べさせてそれを確保させた。
 エサウとモアブの指導者たちが野営地にてホロフェルネスに提案した。即ち、⎯⎯
 天然の要塞であるベトリアを攻めるには、山の麓に湧き出る水源を押さえてしまうのが良策でしょう。そうすればかれらは渇きに耐えかねて町を明け渡すに違いありません。この方法ならば1人の兵も欠けることなくベトリアを占領することが出来るでしょう。
 これはホロフェルネスとかれの側近たちの気に入るところとなり、さっそくアンモン人とアッシリア兵に命じて実行させた。

 ユディ7:19−32〈ベトリアの危機〉
 アッシリア軍の進行を見、その規模に動揺し、怯えつつも、武器を取って攻撃に備え、その夜は寝ずの番を立てて監視に務めたユダヤ人たちであったが、翌日になって改めて敵陣を眺めるとすっかりアッシリア軍が山地を取り巻いているのを知って意気消沈してしまった。
 水源が奪われてしまったことで生活用水は徐々に減っていった。やがて水は配給制となり、満足に水を飲むことの出来る日はなくなってしまった。
 かれらは自分たちの先祖の神に祈ったが、望む形での救いは訪れなかった。
 抗戦の意志をなくしたベトリア住民たちは、オジアたち町の指導者たちのところへ行って、訴えた。降伏して捕虜となろう、その方が現在よりずっとマシだ、少なくとも命は助かる、妻や子供たちが死ぬ様子を見なくても済む、と。
 かれらはオジアたちに重ねて曰く、「天と地にかけて、また我らの神、我らの先祖の神なる主、わたしたちの罪と先祖の罪に応じていまわたしたちに罰を下される神にかけてお願いします。この願いのとおり、今日、必ず実行してください」(ユディ7:28)と。
 が、指導者オジアたちはかれらを諌めた。あと5日、あと5日なんとか辛抱しようではないか。きっと神はわれらを憐れみ、助けてくださる。もし5日経って何事も起こらないなら、そのときはあなた方の要求通り降伏してアッシリアの軍門に降ろう。
 そうして人々は自分たちの家に帰っていった。ベトリアの町は失意の底に沈んだ。

 ベトリアの町の位置は例によって不明であります。アキオル追放時の野営地から更にイズレエル平野の南縁に進み、そこから兵を遣わしてベトリアの水源となる泉をアッシリア軍が確保できたぐらいだから、町の場所は山岳地帯の北部にあり、しかも平野から道を登ってゆき中腹あたりにあるであろう、と、「ユディト記」を読んでいると想像されます。前後して記されるドタンやスキトポリス(ベト・シェベン)などの位置から推測するより他ない、というのが正直なところです。
 これはユディ7:18「モクムル川」、「クス」の近くの「エグルベル」も同様であります。つくづく旧約聖書続編に則した註釈書や地図、事典が、手頃な価格で欲しいと思います。
 降伏して捕虜となった方がマシだ、とベトリアの町の人々はいいました(ユディ7:27)。虐げられる側になったとき、イスラエルはこの台詞を発したことが過去にもありました。歴史書に於いてか預言書に於いてかは忘れましたが、出エジプトの際にも国が滅びる際にもこの台詞はかれらの口から発せられたことがありました。
 南王国ユダの人々はその後、バビロン捕囚を経験した。その生き残りが「ユディト記」の時代の少し前にエルサレム乃至はユダの各地へ帰還したのでしたが、ベトリアの住民たちが捕囚解放を承けて帰還、(偶々)この地に根附いたのか、最初からアッシリア捕囚あるいはバビロン捕囚を免れた人々であったのかは不明です。ゆえに捕囚となった方が死ぬ(殺される)よりマシだ、という考えが経験から生まれた発言だったのか、一概に判断のし難いところであります。
 神なる主により選ばれた嗣業の民、メシアの到来を約束されたイスラエル/ユダヤ民族の「生き延びよう」という思いがDNAレヴェルで存在しているのかもしれません。決して諦めが早い、とか、怖じ気づいた、とか、そんな単純な話ではない、と思うのであります。



 「ユディト記」全章の第一稿があがった今日だからこそいえるのですが、実は本書については予定の遅れを取り戻すため、1日2章のペースで更新することを本気で考えていました。
 その気になれば可能だったはずなのに、従来通り1日1章の更新としたのは特筆すべき理由があってのことでは(当然)ありません。先達ても書いたように、原稿の日付とパソコンによる清書の日の間があけばあくだけ種々の支障が生じてよけいに時間がかかってしまうから、というが精々であります。も一つついでにいえば、本書開始時はまだ第一稿が途中までしか出来上がっていなかったため、すぐに<球>が尽きてしまう恐れがあったこと、ぐらいですかね(な、情けねえっ!)。
 まぁ、いまつくづく思うのは、そんな無謀なことしなくてよかったな、ということです。体力も尽き、脳みそもあまり働いてくれない状態で、文字通りのグロッキーであったかも。そうならなかったことに感謝と安堵。えへ。◆

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