第1561日目 〈ユディト記第11章2/2:〈ユディトの虚実の弁論〉with忘れないでください〜3年目の<今日>を迎えて。〉 [ユディト記]

 ユディト記第11章2/2です。

 ユディ11:5−23〈ユディトの虚実の弁論〉
 捕らえられたユディトはホロフェルネスの前でかれを、またネブカドネツァル王を寿ぐ前口上を述べたあと、虚実の言葉を並べ立てた。曰く、⎯⎯
 全アンモン人の指揮官アキオルがホロフェルネス様の前で申しあげたわれらに関することは皆事実です。つまり、われらユダヤ人は神に対して従順で、その道をきちんと歩き、神の目に正しいと映ることを行っていれば、神からの罰を受けることも敵の剣に渡されることもありません。しかし、わたし以外のユダヤ人はいままさに神に対して罪を犯そうとしています。
 いまベトリアの町では食糧が尽きかけています。水の蓄えも殆どなくなりました。そこでかれらは家畜を殺し、律法で禁じられたものまで食べることに決めたのです。折しもエルサレムでは献げ物とすべき小麦やぶどう酒、オリーブ油などを住民の食糧に供してゆくことを決めたとのことです。ベトリアの住民はこれを知ると、エルサレムの長老会議に宛てて自分たちの決定を許可してくれるよう使者を出して嘆願し、いまはその返事を待っているところです。かれらが自分たちの決定を実行に移すとき、ベトリアの町は神の裁きを受けて滅びるのでありましょう。かれらの決定とエルサレムへの使者の派遣を知ったから、わたしは町から逃げてきたのです。
 わたしは神を敬う者です。わたしは夜毎谷へ出て、あなたたちのためにわが神へ祈りましょう。そうすれば神はご自分の民が過ちを犯したとき、わたしにそれを伝えてくれるでしょう。ホロフェルネス様、そのときが進軍のときです。もはや誰一人立ち向かう者はおりません。ユダヤの中心を通ってエルサレムへお進みください。「実にこれらのことは、先見の力によって示され、知らされたことであり、わたしはこれをお知らせするために遣わされたのです。」(ユディ11:19)
 ユディトの弁論が終わり、ホロフェルネスがいった。お前は見目麗しく、話す言葉も優れている。もしお前が具申したように事が進んだならば、お前の信じる神をわたしも自分の神として認めよう。そうしてネブカドネツァル王の宮殿に住むお前の名は世界に知れ渡る事だろう。

 虚実とはいえ理路整然とした話であるせいもあり、ホロフェルネスでなくともユディトの言葉はつい信じてしまいそうです。ここでたぶん絶対的説得力を持っているのは、旧都エルサレムでもいまはそうしている、という部分でしょう。
 神殿を擁すエルサレムでさえ律法に反することを行うなら、ベトリアのような地方の小さな町が禁忌を犯すことにどれだけの咎があるというのか。しかし、それはベトリアの住民がすっかり忘却している(という体になっている)神への背反であり、即ち神の怒りが降るときが近い、ということ。為、ホロフェルネス率いるアッシリア軍の進攻はずっと容易くなる。
 ⎯⎯才色兼備のユディトが斯く語れば、本章最後のホロフェルネスの返事も納得であります。現代のように美しい女性の言葉を簡単には信じない、その裏にある真意を探る、なんて考えのなかった時代だったのだろうなぁ、と思うと、ちょっぴり良い時代だったのかな、なんて思うてしまいます。



 3年目の<今日>という日についてなにか書こうとすると、途端にどんな言葉も形ばかりのものとなり、偽物めいてしまうことに、己の無力を痛く思い知らされます。
 被災地には1人の親類と2人の知己がいる。親類は特に記すべき被害に遭うこともなかったそうだ。精々が部屋の棚が倒れ、食器の一部が散乱した程度と云々、停電は間々あったということだが。於仙台市内。
 が、知己の1人については現在も消息不明なのです。直後に連絡が取れないのは当然としても、しばらく経って何度か出したメールや葉書はすべて宛先不明で戻って来。この子は大学の後輩ですが、同窓会が安否を尋ねてみても彼女だけ返事はないということだ。震災犠牲者ではなく、どこか他の土地へ転出して元気に暮らしている、と思いたい……。
 3年前の今日3月11日、東北地方を中心に発生した東日本大震災で犠牲となったすべての方々へ慎んで哀悼の意を表すとともに、そのご遺族には心からお悔やみを申しあげます。
 そうして、現在も東北の地で生活する皆様、住み馴れた地を離れて生活する皆様。もう以前と同じ生活には戻れないかもしれない。しかし、皆様は命を落とさずに済んだ。3月12日以後の日々を生きることを許された。それがどれだけ大事なことであるか、忘れないでください。生きたくても生きられなかった人々の思いを、忘れないでください。
 もしかすると、震災で亡くなった人が身内にいるわけではないお前がなにをいうか、被災地の経験をしていないお前が出しゃばるな、と罵倒されるかもしれない。ただ、天寿を全うして逝ったわけではない、天災により命を奪われた人が残した思いを忘れないでください、とだけはどうしてもここで書いておきたいのです。自宅の火事で父を亡くし、そのあと自暴自棄の人生を送りそうになったわたくしは、それだけでも伝えておきたい。
 「上から目線」にならぬよう注意して書いたつもりですが、もしそんな風に受け取られてしまったら、ごめんなさい。
 みんなで立ち続けよう。希望の旗を振り続けよう。
 薄暗がりになったら、すぐに希望の灯火を照らして、高く高く掲げていよう。◆

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