第1574日目 〈エステル記(ギリシア語)第C章:〈モルデカイの祈り〉&〈エステルの祈り〉wtih伊勢佐木モールの喫茶店/カフェ・シーンの衰退を嘆く〉 [エステル記(ギリシア語)]

 エステル記(ギリシア語)第C章です。

 エス・ギC:1−11〈モルデカイの祈り〉
 エステルにいわれたように、モルデカイは帝都に住むすべてのユダヤ人を集めた。そうしてこれまでの主の御業の数々を思い起こして、イスラエルの神に祈った。曰く、⎯⎯
 イスラエルの救いがあなたの御旨なら、いったい誰がそれに立ち向かえましょうか。あなたはすべてを見、すべてを知る方。
 わたしがハマンにひれ伏さなかったのは如何なる理由からでもなく、ただ神の栄光の上に人の栄光を置かないためです。決して慢心などからはありません、わたしが何人にも跪かず、ひれ伏さずにいるのは。
 「主なる神よ、王よ、アブラハムの神よ、/今こそ、あなたの民を顧みてください。/人々は我々を滅ぼそうと付けねらい、/初めからのあなたの遺産であった民を/消し去ろうとしているからです。/御自分のためにエジプトの地から贖われた/あなたのものである民を軽んじないでください。」(エス・ギC:8ー9)
 どうかわれらを顧み、われらの悲しみを喜びに代えてください。あなたが顧みることでわれらが生き永らえ、あなたの御名を永久に讃え続けることができますように。
⎯⎯と。
 すべてのユダヤ人は自分たちの死を目前にして、あらん限りの声で主に叫び、主を求めた。

 エス・ギC:12−30〈エステルの祈り〉
 王妃エステルは華美な衣を脱いで卑しい装いに着替え、髪をぐしゃぐしゃにして灰と芥で頭を覆って、イスラエルの神へ祈った。曰く、⎯⎯
 嗚呼、主よ。あなたの他に救い手を持たないわたしを助けてください。あなたの他に頼るもののないただ一人でいるわたしを助けてください。
 あなたは罪を犯したイスラエルを罰し、敵の手に渡され、各地へ散らされました。いま敵はそれだけでは飽き足らず、偶像へ手を置いて誓ったのです、あなたの遺産であるわれら民族を滅ぼそう、と。そうしてあなたではなく肉なる人間の王を永遠に崇めさせるのです。
 「主よ、あなたの王笏を無に等しいものに渡さず、/敵に我らの滅びをあざけらせないでください。/むしろ敵の計略を敵自らにふりかからせ、/率先して我らに刃向かう者を/見せしめにしてください。」(エス・ギC:22)
 わたしに勇気を与えてください。獅子の前で雄弁な言葉を語らせ、われらへ戦いを挑む者を憎ませて仲間共々葬り去らせる勇気を、どうか。
 ⎯⎯主よ、わたしはあなたの前に敬虔です。⎯⎯
 「アブラハムの神なる主よ、/わたしの運命が変わった日から今に至るまで/あなたのはしためには、あなたのほかに/喜びとするものはありません。/すべての人に力を及ぼされる神よ、/希望を失った者の声に耳を傾け、/我らを悪人の手から救い/わたしを恐れから解き放ってください。」(エス・ギC29ー30)
⎯⎯と。

 「ヘブライ語によるエステル記」の特徴の一つは、本文に神の存在/記述が一切なかった点にありました。それはペルシア帝国で始まり全世界のユダヤ人社会へ広がっていったプリム祭の起源を、さももっともらしく語るのが趣旨であり、自ずとそれが語られていることが特徴であったからです。
 このあたりが⎯⎯神の不在⎯⎯旧約聖書のギリシア語翻訳(70人訳)の過程で不思議に思われ、疑問視されたところではなかったでしょうか。実は「エステル記」は最後まで旧約聖書に組み込むべきか否かで議論になったそうであります。理由は上述した神の不在/記述のなき点にありました。しかし、逆に民衆の間では「エステル記」はその物語性ゆえに絶大な人気を博していたようであります。民意を汲んだ結果といえるかどうか、いずれにせよ「エステル記」が旧約聖書を構成する書物の一つとなっていることは、今日のわれらも知るところであります。
 「ギリシア語によるエステル記」では本章を筆頭にイスラエルの神に言及する箇所が幾つも増補されています。第A章で提示され、最後の第F章で読み解かれるモルデカイの見た夢も然り。先日も書きましたが、一個の物語として「エステル記」を読む場合、ヘブライ語よりもギリシア語の方が広がりと奥行きがあり、馥郁たる文学の香りを感じられることであります。



 伊勢佐木モールからスターバックスが退却して間もなく3ヶ月になろうとしています。原稿執筆を専らとする喫茶店/カフェの探訪は一段落し、概ねだいたい店舗には馴染んだのですが、時にはスタバ退却がもたらした弊害に苦しめられることがある。
 苦しい、といっても、空席ジプシーしたり騒々しかったりするときに、ああモールのスタバっていうもう一つの選択肢が健在だったらなぁ、と落ち込むことがある、というぐらいのことですが。上島珈琲店とエクセルシオールぐらいでは、スタバ退却の痛手は治癒されないのである。ぜったい、ムリ。
 つくづく思いますね、本当に横浜ってカフェ不毛地帯なのだな、と。ここでいうカフェ或いは喫茶店が、そこそこ長時間いても特に嫌な顔をされず、常連を大切にし、静かな空間と美味いコーヒーを提供してくれる場所のことだ。伊勢佐木モールもずっと奥まで行けば満足できる喫茶店が2、3軒あるけれど、原稿を書くための時間を割ける程に居心地は良くない。
 そう考えると、わたくし的にはスターバックスの撤退も残念だけれど、それ以上に南蛮屋カフェ(茶館ではなく)の閉店は打撃であった。あすこ程わが希望を体現してくれた喫茶店はなかったのに……。やはりあのとき居抜きで買い取り、カフェでサブチーフをしていた彼女を店長に据えて、自分で喫茶店のオーナーになれば良かったかなぁ。
 そんなやり直せぬ過去すら玩んでしまうぐらい、伊勢佐木モールの喫茶店/カフェの衰退ぶりを嘆く土曜日の宵刻でありました。◆

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