第1579日目 〈エステル記(ギリシア語)第3章&第8章3/3:〈勅書〉with「ことえり」よ、ありがとう。〉 [エステル記(ギリシア語)]

 エステル記(ギリシア語)第3章と第8章3/3です。

 エス・ギE:1-8:17〈勅書〉
 以下はペルシア全域、即ちインドからエチオピアへ至る全127州に公布された勅書の内容である。それに曰く、⎯⎯
 どのような者であっても、恩人の愛顧を忘れて陰謀を企てるようになる。どのような者であっても、周囲の影響を受けて悪事に手を染めてゆくようになる。かれらは万物の上に目を注ぐ神の裁きから、自分だけは免れられる、と思い込む。これらのことは歴史を繙けば明らかである。
 ゆえに予、アルタクセルクセスは将来を鑑み、「国家を秩序あるものにして万民が平和に過ごせるようにする必要があると考える。そのためには方針を改め、視野に入ってくることを常に公正な態度で判断しなければならない。」(エス・ギE:8−9)
 ここにかつては<国の第2の父>とまで呼ばれた宦官ハマンがいる。かれはマケドニア出身の異国人であるが、予の取り立てによって臣下のなかでは最高の地位に就いた。しかしそれゆえに驕り高ぶり、予の覇権と生命をも狙うようになった。そうして功労者モルデカイと王妃エステルを、同胞ユダヤ人もろとも滅ぼし去ろうと謀ったのである。
 「しかし、この三重にも悪辣な者によって全滅の憂き目に遭うところであったユダヤ人は悪人ではない、と予に明らかとなった。彼らは最も正義にかなった律法に従って生活し、至高にして偉大な生ける神の子らであり、その神のお陰で、国家は我々のためにもまた我々の先祖のためにも最良の状態に保たれてきたのである。」(エス・ギE:15−16)
 いまやハマンはこの世にない。絞首刑となった。かれは反逆者だったからである。それゆえ前に公布された、ユダヤ人虐殺を命じた勅書は無効である。この勅書がそれに代わると知れ。
 あらゆる場所にこの勅書の写しを公示せよ。これはすべてのユダヤ人の生活習慣を維持・継続することを許すものである。ユダヤ人以外の民は、前の勅書によってかれらの受難の時と定められた日、即ちアダルの月第13日にはかれらを敵から守るよう努めよ。
 その日は、全能の神が自分の選んだ民の殲滅の日ではなく、祝祭日となる。その日は、われらペルシア人にとっても記念すべき日となる。悪事を謀る者にとって、その日は滅びの警鐘となるだろう。定めに従わぬ地方は槍と炎で容赦なく滅ぼされて、生きとし生けるものの絶えた場所になるだろう。
 すべてのユダヤ人は、敵との戦いに備えよ。
⎯⎯と。
 新しい勅書はペルシア帝国の領内へ隈なく素早く公布された。全国の町、村のユダヤ人はこのことを知り、喜び祝った。諸国民の多くがユダヤ人を恐れて割礼を受け、ユダヤ人となった。ユダヤ人モルデカイは讃えられ、帝都スサの住民に歓迎された。

 ユダヤ人を滅びから救う内容の勅書ですが、個人的に印象に残るのは冒頭の部分、「どのような者であっても、恩人の愛顧を忘れて陰謀を企てるようになる。どのような者であっても、周囲の影響を受けて悪事に手を染めてゆくようになる」という箇所です。
 働いている方なら、どなたでも心当たりがあるのではないでしょうか? お店で買物をされた方なら、脳裏に浮かぶ店員の1人、2人はいるのでは? あの人、変わったよね。そんな風に思うたり、誰かと囁いたりしたことはありませんか?
 ここでは挙がるのはハマンですが、古今東西を問わず、人は環境によって幾らでも変貌してゆくのであります。善人が悪人になることがある。悪人が善人になることもある。
 でも、どんな環境であっても変わらぬものもある。それは愛であり、信仰であり、信念である。旧約聖書(続編)に於いてはモルデカイが、ユディトが、ルツが、エレミアが、モーセが、ダビデが、ノアが、イザヤが、アブラハムが、イサクが、ヨセフが、そうしてエステルがそうでした。
 きっとわれらの周囲にもそういう人物はいると思います。



 「ことえり」に馴れてしまったせいか、「Google日本語入力」に戸惑っている。
 一ヶ月強とはいえ、馴れというのは恐いものですね。文節移動とか変換候補の出方とか、操作についても視覚についても、「ん?」というときがある。
 ときどき困った変換をしてくれることもありましたが、それでも当初から文章作成のお供を買って出てくれていた「ことえり」には感謝しています。
 が。
 まさかここまで「ことえり」に親しみを感じてしまうなんて、思いもよらなかったですよ。◆

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