第1580日目 〈エステル記(ギリシア語)第9章:〈ユダヤ人の復権〉&〈プリムの祭りについて〉withMacBook Airの購入を決めました。〉 [エステル記(ギリシア語)]

 エステル記(ギリシア語)第9章です。

 エス・ギ9:1−19〈ユダヤ人の復権〉
 その日が来た。第12の月、アダルの月13日にユダヤ人の宿敵が滅ぼされた。ユダヤ人に逆らう者はなく、役職に在る者は皆ユダヤ人を丁重に扱った。なによりも勅書に名を留めるモルデカイを、かれらは恐れたのである。
 帝都スサではユダヤ人の宿敵500人が殺され、ハマンの息子10人も父と同じく絞首刑に処された。いずれもユダヤ人の手によって、である。王の問い掛けに王妃が答えたことで(エス・ギ9:12−13),翌日もユダヤ人の宿敵が剣にかけられ、殺された。その数、300。
 ⎯⎯アダルの月13日、ユダヤ人によって虐殺された者は15,000人に上った。が、略奪行為は一切なかった。
 「こうして同月の十四日には休み、この安息の日を喜び祝いつつ過ごした。他方、首都スサにいるユダヤ人は十四日にも集まったが、その日には休まず、十五日を喜び祝いつつ過ごした。こういうわけで、首都以外の地方ではどこでも、離散のユダヤ人はアダルの月の十四日を祝いの日として喜び合い、それぞれ隣人に贈り物をし、他方、首都に住むユダヤ人は、アダルの月の十五日を喜ばしい祝いの日とし、隣人に贈り物をするのである。」(エス・ギ9:17−19)

 エス・ギ9:20−31〈プリムの祭りについて〉
 アダルの月14日と15日は祝いの日と定められた。ペルシア帝国の版図全127州及び帝都スサに住むユダヤ人は、モルデカイが書き送った文書(書簡)によって、そのことを知った。
 アダルの月14日と15日は、ユダヤ人にとって敵から解放されて安息を得た日である。悲しみから喜びへ。苦悩から歓喜へ。この日を境にユダヤ人には光と喜びが訪れたのだった。
 そもこの日の訪れまでに、ユダヤ人はあらゆる苦しみを受け、あらゆる迫害と差別を経験した。ハマンがくじによってユダヤ民族絶滅を決めたことが、そもそもの原因であった。ゆえ、アダルの月14日と15日の祝日は「フルーライ」と呼ばれる。「フルーライ」はヘブライ語では「プリム」、「くじ」という意味だ。
 「ユダヤ人はモルデカイの定めたことを自分自身や、子孫およびユダヤ人に加わる者たちが守るべきこととして受け入れた。皆、将来も必ずこのことを守り続けるであろ。これらの日はいつの時代にも町という町、家という家、地方という地方で記念され、祝われるべきものである。このフルーライの日々はいつまでも守られ、この記念は代々決しておろそかにされてはならないものである。」(エス・ギ9:27−28)
 ⎯⎯モルデカイと王妃エステルはフルーライを記念するため、またこれを法令として永久に規定するため、自分たちが行ったすべての事柄を記録させた。

 納得できないし、釈然としない。どうしてユダヤ人は自分たちに敵意を抱く者らを殲滅したのだろう。王の名を借り、ハマンによって発行された前の勅書では、たしかにユダヤ民族虐殺が指示されていた。しかし、計画は未然に防がれ、実際に虐殺行為は行われなかった。なのに、なぜユダヤ人は自分たちに敵意を抱く者たちを剣にかけ、合計15,000人を殺したのだろうか。
 <やられる前にやれ>ということか?
 どれだけ以前から迫害や差別をされていたとしても、相手を殺していいという論理に至るであろうか? 王の勅書は誤った正義を実行するための錦の御旗ではない。かれらの行為は単なる鬱憤晴らしだ。いじめられっ子の復讐と変わるところはない。狂っている。
 「エステル記」に書かれたユダヤ人虐殺計画、それに報復する意味合いでの、ユダヤ人による敵対する多民族への攻撃が実際にあったことなのか否か、それはわかりません。しかし、これらが本当にあった出来事ならば、かの時代における命をめぐる種々の倫理は、われらの想像を超えるぐらい軽視されていた、と考えてしまっても仕方ないことだと思います。



 なにかと評判の宜しからざる<スタバでMacBook>。本ブログでも何度かエッセイのネタにしまいた。自分も<スタバでMacBook>デヴューを飾るのも遠くない話だ、と書いたこともある。消費税が8%になるまであと2日。現行税率で購入することは諦めたけれど、MacBook購入の意志に変化はない。
 平日は自宅で原稿を書くことが殆ど出来ない以上、それを行うのは必然的に会社帰りのカフェか図書館(休日に外出していてもそれは同じだけれど)となる。明日も仕事があるなら、退勤後の時間をどれだけ有効かつ有意義に運用するか、考える必要がある。そのために然るべき“道具”が要るなら、それは何か、も。
 わたくしの場合、それはMacBook Airであった。
 ノートに原稿を書く、という工程が省けるかわからないが、外にいる間にさっさとMacBookで原稿を仕上げてしまい、その場でブログを更新してしまう。更新に至らずともiCloudに上げておけば、帰宅後にiMacで続きを書いたり細かな修正を加えればいい。
 正直なところ、これから忙しくなるから、ブログ執筆にかかる時間と負担を少しでも減らしたいのだ。MacBook Airの購入はそのための投資だ。早くも2台持ちになってしまうのが、われながらちょっと贅沢かな、と後ろめたい気持ちもあるけれど、まぁ、仕方がない。iMac購入前後から可能性として計画していたことでもありますしね。
 <それ>に使われるのではなく、<それ>を使うことでわたくしは時間を買い、自分にとってより良き時間の使い方を模索するのだ。
 <スタバでMacBook>? 上等ではないですか。批判も様々あるようですが、使い手がそれを選んだのなら、それで良いではないですか。わたくしがMacBook Airを選ぶのは、使い勝手と軽さ。Windowsも検討したけれど、どれも重くて腰に負担が掛かりそうで、嫌なんですよね。基本的にWindows搭載のPCは屋内での利用に適していると思います。◆

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