第1625日目 〈マカバイ記一第10章2/3:〈ユダヤ人にあてたデメトリオスの書簡〉&〈アレキサンドロスとデメトリオスの戦い〉、マカ一ブログ原稿に見る反省点/休んだ理由withディックの『ヴァリス』新訳について〉 [マカバイ記・一]

 マカバイ記一第10章2/3です。

 マカ一10:22−45〈ユダヤ人にあてたデメトリオスの書簡〉
 しまった、とデメトリオス1世は思った。ユダヤ人がアレクサンドロス・バラスと同盟を結び、自分たちの立場を強化するなど想定外の出来事であったからである。憂慮したかれは、ユダヤ人を味方にしようと誘いの書簡を書き送った。内容は、概ね以下の通りである、⎯⎯
 一、あなた方があたしに対してのみ忠実であり続けてくれるなら、恩恵を以て報い、以下のようにユダヤ人の負担を軽減しよう。
 一、全ユダヤ人の貢、塩税、王冠税、家畜税、十分の一税、租税を免除する。
 一、今後、私が受け取るべき収穫の1/3、果実の半分を放棄し、ユダの地及びサマリアとガリラヤからユダに編入する地から受け取ることはしない。
 一、エルサレムとその周辺を聖地とし、それまで私が持っていたエルサレムの要塞の支配権を放棄し、その権限は大祭司に譲る。
 一、王国内の各地に散ったユダヤ人の捕虜を全員、無償で解放する。
 一、安息日と、すべての祝祭日とその前後3日間、新月と記念日には、王国内の全ユダヤ人に休日と解放を約束する。これらの日々にユダヤ人が税の取り立てを強要されたり、不当な苦しみを受けることはない。
 一、ユダヤ人の成人男子30,000人を私の軍隊に加えて、王の兵たちと同等の待遇を与える。あれらの監督官や指揮官はユダヤ人のなかから選出され、任命され、その律法に従って歩ませる。
 一、ユダヤに併合されるサマリアの三地方は、大祭司一人の権威に服従させる。
 一、プトレマイオス朝エジプトとその属領をエルサレムの聖所に寄進する。私は、毎年の税収から銀15,000シェケルを与える。また、神殿に与えられるべきなのにそうされず余剰となっているものは、今後従来通り神殿の仕事に充当させる。
 一、聖所の収入から毎年徴収していた銀15,000シェケルを免除する。
 一、王に対する負債、その他のあらゆる負債を負ってエルサレムへ逃げ込んだ者たちの負債一切を免除する。
 一、聖所の再建と修築、エルサレムの城壁とその周囲の砦の再建、その他ユダヤの各地の砦の再建に掛かる費用は、すべて王の会計から支出することとする。
⎯⎯以上が書簡の内容である。

 マカ一10:46-50〈アレキサンドロスとデメトリオスの戦い〉
 が、ユダヤは⎯⎯ヨナタンとかれを戴く者たちは、デメトリオス1世の言葉を信じなかった。それ以前に聞き入れようとも思わなかった。かれらはデメトリオスがユダヤ人に対して行った非道の数々を覚えているのだ。むしろユダヤ人は、自分たちに和平を提唱してきたアレキサンドロス・バラスに好感を持った。ゆえにかれらは、アレキサンドロスと同盟を結んだのである。
 アレキサンドロスは軍隊を召集してデメトリオスの軍勢と戦った。「戦いは熾烈を極め、日没に至った。」(マカ一10:50)アレキサンドロス軍はデメトリオスの軍勢に圧倒されて敗走した。が、この戦いでデメトリオス1世は戦死してしまう。

 デメトリオス1世の提言。この部分だけを取り出せばなんと寛大な君主であろう、と錯覚すること間違いなし。が、本文にも書かれているように、ユダヤ人就中ヨナタンとその取り巻きは全くこれを疑い、鼻から検討する気もなく、より具体的な和平交渉を提案してきたアレキサンドロス・バラスに与することを決めたのである。
 それぐらいにデメトリオス1世が後のナチスや反ユダヤ団体によるユダヤ人弾圧と同じぐらい残虐な行為に及んだ、というよりは、むしろその提案のあまりにも現実性を欠いた点にあるというてよいでしょう。
 書簡を受け取ったヨナタンやユダヤ人たちの目が点になり、王の厚顔無恥ぶりに呆れる光景が目に浮かぶようでありませんか。デメトリオスは提言の内容を拡大しすぎた。それゆえに実現が疑問視される案までが話題に上った。王の甘言はユダヤ人の疑惑を招くだけだったのだ。自らの策に溺れた、というのが相応しい。哀れ、デメトリオス。ユダヤがアレキサンドロスに信を置いたのも至極当然であります。
 

 ちょっとこの数日反省していました。「マカバイ記一」に入ってからというもの、テキストをちゃんと読み込んで原稿を書くことを怠りがちでした。資料にあたって疑問点を解決したり、地理や人名、人間関係を整理したりすることに、神経を行き届かせることができませんでした。
 良くないことです。改善しなくてはなりません。少しでも質の良い原稿を作ってゆかねばならない。自分のためにも読者諸兄のためにも。先日吐露した、時間が経ったときに読み返して、「いちばん粗を見出し、いちばん改稿の筆を多く入れるべき」(第1618日目)と反省したのは、上述のような理由からでもありました。
 休んでしまった原因はまったく以て個人的な要因に拠るのだが、その一方で、気持ちを新たにして、以前のように真摯な態度で聖書読書と原稿執筆に打ち込まねばな、と己に言い聞かせてもいた期間でもあったのです。
 どうか読者諸兄よ、本ブログを見捨てたり、見離さないでほしい。わたくしも能う限りの努力をしてゆくから。



 フィリップ・K・ディック『ヴァリス』の新訳が先日刊行されました。ハヤカワ文庫SFより、山形浩生・訳。本作には既に大瀧啓裕による本邦初訳があった。初刊はサンリオSF文庫、後には創元推理文庫から藤野一友の表紙絵そのままに復活した。われらの世代にとって『ヴァリス』とはあくまで大瀧啓裕の翻訳であり、藤野一友の表紙絵であるがために、今回の新訳刊行は少しばかり複雑な気持ちで迎え入れることになる。
 山形訳は読みやすい。小説として楽しむ分にはなんの問題もない。ディックの教養に訳者が引きずられて、日本語が晦渋になって読書の酩酊に水を差すようなことは、この山形訳では経験しなかった。翻訳もすこぶる自然だ。が、そのぶん大瀧訳にあった或る種のいかがわしさ、経典としての立ち位置は失われてしまったように思う。本編は勿論だが、殊に釈義の翻訳では、やはり教養に裏打ちされた大瀧訳の方に軍配を挙げたい気分である。
 純粋に小説として楽しみたいだけで七面倒臭い部分はなるたけ敬遠したいなら新訳で、小説としてのみならず晩年のディックの思想をも視野に入れた濃厚な読書を経験したいなら旧訳で、ということになるでしょうか。
 個人的には、この新訳を読んだ感想を大瀧啓裕に聞いてみたい。そんな、あまのじゃくな魂胆も抱く。◆

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