第1646日目 〈マカバイ記二第9章:〈アンティオコス・エピファネスの末路〉&〈アンティオコスのユダヤ人への手紙〉with村上春樹読書マラソン、最終コーナーに突入!〉 [マカバイ記・二]

 マカバイ記二第9章(アンティオコス・エピファネスのもとでの迫害)です。

 マカ二9:1-17〈アンティオコス・エピファネスの末路〉
 アンティオコス4世のペルシア遠征は失敗した。殊ペルセポリスという町では住民の武装蜂起に遭い、恥辱の撤退を余儀なくされる。そこへティモテオス、バキデス、ニカノルの敗北の報がもたらされた。王は激怒し、ただちにエルサレムへ取って返し、かの都を憎きユダヤ人どもの共同墓地にしてやる、と息巻いた。
 そんなアンティオコス・エピファネスの五臓六腑に激痛が走った。それでも王は不遜な態度を改めず、ユダヤ人抹殺の思いを増してゆくばかりだ。かれはエルサレムへ急行する戦車から転落し、体中の関節が外れて動くことかなわず、担架で運ばれてゆく始末であった。それらはいずれも、イスラエルの神なる主による目に見えぬ致命的な一撃であった。
 「この神を畏れぬ者の両目からは蛆がわきだし、激痛にさいなまされつつ、その肉は生きながらに崩れ、全陣営がその腐臭に悩まされた。」(マカ二9:9)
 ……さすがのシリア王もいよいよこうなると、イスラエルの神の力を思い知るよりなかった。かれは言った、──「神に服従することは正しく、死すべき者が、思い上がってはならないのだ。」(マカ二9:12)
 そうしてアンティオコス4世は、これまで虐げてきた民族の神の前にへりくだった。が、もう遅かった。神の正しい裁きが降っていたからである。

 マカ二9:18-29〈アンティオコスのユダヤ人への手紙〉
 王は絶望した。絶望しつつ、ユダヤ人へ哀訴の手紙を綴った。曰く、──
 「病に倒れてみると、あなたがたから受けた尊敬と好意が懐かしく思い出されてくる」(マカ二9:22)と。また、「わたしは、この身に起きたことについて、絶望しているわけではなく、回復の希望を大いに抱いている」(マカ二9:22)とも。
 わたしはここに、後事を託す者として息子アンティオコスを指名する。これについては既にかれも承知だ。どうか友なるユダヤの人々よ、「公私にわたってわたしから受けた恩義を忘れず、各自、わたしとわたしの息子に対し、今後も変わらぬ好意を示してもらいたい。」(マカ二9:26)
──と。
 前164年/第149年、セレコウス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネスは崩御した。ユダヤの冒瀆者にして殺戮者に相応しく、異国の山中で無残な姿で無様な死を遂げた。
 王の友人フィリポスは王であった男の遺体を持って帰国した。が、新王アンティオコス5世エウパトルを警戒するフィリポスは、エジプト王プトレマイオス6世フィロメトルの下に身を寄せたのだった。

 アンティオコス4世が遂に歴史の舞台から退場する。
 「マカバイ記一」ではあたかも憤死したような逝き方をした王の末路ですが、ここでははっきりとその死にイスラエルの神が介入していることが明らかとなっている。それゆえシリア王は、「神に服従することは正しく、死すべき者が、思い上がってはならないのだ」と嗟嘆するのだ。これは実感だったろう。不遜な輩が死を前にしてようやく思い至った真理。まぁ、そう言うに憚らず、人生の最期にあの時代のあの地域を支配していた<世の理>へ到達し得ただけでも諒とすべしなのかもしれぬ。なるほど、「歴史家はマカバイ記一を採り、宗教家はマカバイ記二を尊ぶ」とはこのような所以か。
 ところでこれって、……要するに<郷に入れば郷に従え>っていうことですよね?
 しかしですね、いくら哀訴だとかなんだとか言うたとしても、いったいどの面下げて、「あなたがたから受けた尊敬と好意」云々だとか、「公私にわたってわたしから受けた恩義を忘れず」云々だのと言えるというのだろう。否、穿った見方をすれば、この手紙は自分の側に従いていろいろ尽くしてくれた極々一部の不敬虔なユダヤ人(たとえばメネラオスのような)に宛てて書かれたのかもしれぬ。おお、なんたること!? が、もしそれが誠であるならば、斯様な王の今際の言葉の数々が、簡単に納得できてしまうことであります。ふぅむ。



 今年もそろそろ後半戦に突入。そこで読書計画なるものを描いて展望してみた。……んんん……あれ、村上春樹しか思い浮かばないや。おお、なんたることか!?
 それはともかく。
 ただいま進めている全短編集の読破は、おそらく盛夏の頃に果たされる。その後は悠然と、大晦日のその終わりの刻まで紀行文とノンフィクションの読書に耽るとしよう。合計4冊。内訳は、『遠い太鼓』(講談社)と『雨天炎天』(新潮社)、『アンダーグラウンド』(講談社)と『約束された場所で』(文藝春秋)、以上。
 あれ、他にもあったんじゃない? えっと、なんだっけ、書名が思い出せないけれど、他にも何冊かあったよね? ──そうお訊ねになる方がどれだけいらっしゃるだろうか。ただこちらの回答としては、もう既に読んであるものを今回の計画では再読はしない、再読するのは計画が達成されたあとのお話である、ということ。『辺境・近境』(新潮社)、『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』(新潮社)、『シドニー!』(文藝春秋)など。
 今年が最終年である。数年来続いてきた<村上春樹読書マラソン>の最終年だ。従ってかねてより希望している太宰治とドストエフスキーに戻ってこれを終わらせるのは、来年2015年のこととなる。鬼に笑わせたりはしない。そういえばNMB48の「太宰治を読んだか?」はじんわりと来る好ましき一曲ですね。山本彩と横山由依と山田菜々のハーモニーが絶品なのですよ。1stアルバム《てっぺんとったんで!》Type-Bに収められています。それはさておき。
 現在読んでいる短編集は『レキシントンの幽霊』(文春文庫)。これに「沈黙」が収められているのですが、やはりこの作品は何度読んでも深い読後感を抱かされます。村上作品で斯くもずっしりとした印象を後々まで残す作品も稀であります。
 ──これから「氷男」を読みます。買うたび手放してきた『村上春樹ブック』(文藝春秋)に載っていたこの短編が、もしかすると村上春樹の短編との初めての遭遇だったのだろうか。記憶は捏造されているかもしれない。実際のところはどうだったんだろう?◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。