第1649日目 〈マカバイ記二第11章:〈ベトツルでのリシアスとの戦い〉&〈リシアス、ユダヤ人と和睦する〉with休みが3日も続くとグウタラになって困る。〉 [マカバイ記・二]

 マカバイ記二第11章(アンティオコス・エウパトルの治世下の事件)です。

 マカ二11:1-12〈ベトツルでのリシアスとの戦い〉
 ゲゼルの町がユダヤ軍によって占領されたあとのことである。アンティオコス・エウパトルの後見人で親族でもある長官リシアスが大軍を率いてユダヤ人に立ち向かった。
 というのも、「歩兵およそ八万と全騎兵を召集し、ユダヤ人に立ち向かった。それは、都エルサレムをギリシア人の居住地にし、 他の異邦人の神殿同様に、そこの神殿にも税を課し、また大祭司の地位も毎年、金しだいで決めようともくろんだためである。」(マカ二11:2-4)
 リシアスは軍隊を率いてユダヤに侵入、エルサレム南西約27.5キロに位置するベトツルを攻めて窮地に陥れた。
 それを聞いたユダヤの人々は悲嘆に暮れたが、武器を取ったユダ・マカバイに激励によって奮い立ち、ベトツル目指して出撃した。「彼らがまだエルサレムの近くにいたとき、白衣をまとい、金の武具をきらめかせた一人の騎士が現れて彼らの先頭に立った。そこで一同は、憐れみに富む神を賛美し、士気を大いに鼓舞され、人間ばかりか、最もたけだけしい野獣や鉄の城壁でさえも打ち破るほどの意気込みとなった。主が彼らを憐れまれたので、彼らは天からの味方を得、装備を整えて突撃した。」(マカ二11:8-10)
 獅子奮迅の働きをしてユダヤ軍はリシアスの軍勢を蹴散らした。シリア兵の多くが倒れ、他は敗走。リシアスもそのなかにいた。

 マカ二11:13-38〈リシアス、ユダヤ人と和睦する〉
 「リシアスはそれほど愚かではなかったので、自分の喫した敗北について自問自答し、力ある神が共に戦っている以上、ヘブライ人は無敵であると悟った。」(マカ二11:13)
 そこでリシアスはユダヤへ使者を送り、和解を提案した。わたしが必ず王を説得して、あなた方が王の友人の列に加えられるようにする。そうしたら、納得のゆく条件を出して和解してはどうか?
 ユダ・マカバイの側に異存はなかった。ユダヤにとってリシアスの提案は得策と思えたからだ。マカバイはリシアスに、自分たちがシリアに求めるユダヤ人の扱いについて数々記した書面を送った。
 それへのリシアスの返書に曰く、──
 アンティオコス王はユダヤ人の要望に能う限り応える、と仰る。「そこでもしあなたがたが、我々の政策に協力的であるならば、わたしは今後も、好意的に対処する考えである。個々の適用については、あなたがたの使者とわたしの使者に、あなたがたのことを協議するように命じておいた。」(マカ二11:19-20)第148年/前164年、ディオス・コリンティオスの月、24日。
 アンティオコス5世からリシアスへの書簡に曰く、──
 「予の父が神々の一人に加えられた今、予の望むところは、領内の者たちが騒ぐことなく、それぞれの仕事に励むことである。予の聞くところでは、ユダヤ人たちが、父の打ち出したギリシア化政策に同意せず、むしろ、彼ら自身の生活慣習を選び、律法を守って生活できるようにと、願い出ているとのことである。
 むろん、予は、この民が不穏の動きに出ることは望まないゆえに、彼らにその神殿を返還し、彼らが父祖伝来のならわしに従って暮らせるようにとの決定を下す。彼らのもとに使者を送り、彼らに和解の印として右手を差し伸べるがよい。そうすれば、彼らは予の意図を知って喜び、進んで彼ら本来の生活に戻るであろう。」(マカ二11:23-26)
 王がユダヤの長老会議と他の地域に住むユダヤ人に宛てた書簡に曰く、──
 あなた方がクサンティコスの月30日までに帰郷するなら、道中の安全は保障しよう。「ユダヤ人として自分たちの食事の習慣と律法とを従前どおり守ることを許可する。また、ユダヤ人の中のいかなる者も、いかなる方法によっても、無知のゆえに犯した過ちについて糾弾されることはないであろう。更に予は、あなたがたを励ますべくメネラオスをも派遣した。」(マカ二11:31-32)同年クサンティコスの月、15日。
 ローマ人がユダヤ人に宛てた書簡に曰く、──
 王の親族リシアスがアンティオコス5世に「取り次ごうと決めた事柄に関しては、あなたがたの間で十分検討したうえ、直ちにこちらにだれかを派遣して、結果を知らせるように。そうすれば、我々もアンティオキアに行くことになっているので、あなたがたに最も好ましいように働きかけよう。」(マカ二11:36)同年同月同日。
 差出人はローマの使節、クイントゥス・メミウスとティトゥス・マニウス。

 ここで描かれるのは、リシアスによる第一次ユダヤ遠征です。並行箇所はマカ一4:26-35.ペルシア遠征中と雖もアンティオコス4世は存命しており、神殿を奪還する直前の出来事です。若干前後関係に齟齬が生じておりますが、それぞれの書物の性格を考えるのであれば、この程度の齟齬を瑕疵と呼ぶにはあたらない、と思います。
 まぁ、フランシスコ会訳の傍注を見ると、本章にてアンティオコス5世がユダヤの長老会議に宛てた書簡は、その流れでいえば第13章の末尾に入るのが適当である、とされていますが、われらは特にその点について喧々囂々する立場の者でありませんので、ここは流してよいと思います。
 さて、メネラオスという者が王によってユダヤに派遣されることになりましたね。どこかで聞き覚えのある名前だと思います。そう、マカ二4:23が初出となった、巧みにアンティオコス4世に取り入って大祭司職をオニアから奪い、オニア殺害の廉で訴えかけられたところを根回しして棄却させ、その後安穏と大祭司の職に居座り同胞を迫害した、あのメネラオスであります。久しく名を聞いていなかったので、てっきりそのまま退場した、と思い込んでいた人はどれだけいるでしょうか。いえ、実はまだ生きていました。そうして変わらず同胞ユダヤ人を虐げる役を買っていました。もっとも、間もなくかれの命運も尽きようとしていますが、それはまたその日になってから、改めてお話ししましょう。
 2人のローマ使節の名前が記録されていますが、残念なことに本書以外、かれらの名前を留める文献は存在しないようであります。本当の名前が別にあるなら話は変わりましょうが、21世紀の今日になってもそのあたりの情報は知られておらぬようであります。
 ところで。「マカバイ記一」の読書では年号が出てきたら、かたくなに紀元前の年号を採用していました。翻って本書「マカバイ記二」ではどうか、といえば、本文に合わせて素直にマケドニア暦を採用、併記する形で紀元前の年号を記してきました。
 そこで疑問が一点。どうしてローマ人はユダヤ人への書簡を認める際、マケドニア暦を採用したのであろう。この書簡は贋作なのか。或いは、「マカバイ記二」が書かれるとき、或いは編纂されたとき、著者/編者はこの部分に手を加えてマケドニア暦に改竄したのだろうか。もっと素直に考えれば、ローマ人が宛先であるユダヤ人の社会に合わせて自分たちの暦ではなく、マケドニア暦で年月日を記しただけの話かもしれない。
 いろいろ想像できちゃいますね。それが歴史の面白さであり、怖いところであり、落とし穴ともなる部分。……さて、埋もれてしまった真実はいったいどれなのでしょう? それとも、ここに挙げた以外の真実が、そこにはある?



 休みが3日も続くとなにをするにも億劫になりますね。夕方近くに掃除をしたのだけれど、それだって朝にやろうと思ってい他、今日やらねばならぬたった一つの予定であった。これ観終わったらにしよう、と先に録り溜めしていた映画を観たり、本日分のブログ原稿を書くことを先にしていたら、さすがに危機感が募り、ようやく重い腰をあげた次第。
 普段の休みの日数以上に休んでいると、本当にぐうたらになりますね。心がやさぐれてきて、動きが鈍重になってくる(物理的にではなく)。この緩慢なる動き、地を踏む一歩は周囲を揺るがす。まるでゴジラみたいだ。ここしばらく『ゴジラ』シリーズを立て続けに鑑賞しているからな、その影響かもしれぬ。キング・オブ・モンスター、破壊神ゴジラの影響力、凄まじき。呵々。
 しかしわずか3日の休みのでこの為体。来月控えている4連休では、いったいどれだけわたくしは駄目になってしまうのだろう? 週一のバイトでもあればこの悲劇的状況も幾らかは好転するのでしょうが……。そろそろお一人様も限界かなぁ。◆

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