第1653日目 〈マカバイ記二第14章:〈ニカノルとユダの和解〉、〈アルキモスの讒言とニカノルの裏切り〉他with小田急脱線に寄せて、秦野の友へ。〉 [マカバイ記・二]

 マカバイ記二第14章(デメトリオス治下)です。

 マカ二14:1-14〈デメトリオスの登場とアンティオコス、リシアスの死〉
 第151年/前162年、セレコウス4世の子デメトリオスが多数の軍隊と艦隊を率いてトリポリスの港へ上陸、その地を制圧した。そのときアンティオコス5世とリシアスが殺された。
 同じ年。メネラオス亡きあとユダヤの大祭司職に就いていたアルキモスが、デメトリオスの許へ行き、質問に答えて自分の愚かなる考えを開陳、実行を促した。曰く、──
 ユダ・マカバイにより指導されたハシダイという連中が未だ抵抗運動を続けて王国の安寧と秩序を著しく損なっています。わたしは父祖伝来の大祭司職を剥奪されてこの地に参りました。デメトリオス陛下を慮り、わが同胞について熟慮してのことであります。ハシダイの連中の頑迷さには、われらもほとほと手を焼いております。陛下、ユダ・マカバイが生きている限り、王国の安寧と秩序は決してありません。
──と。
 これを聞いた、ユダに対して良い感情を持っていない臣下たちがアルキモスに同調、こぞって王にユダヤ討伐をたきつけた。そこで王はニカノルをユダヤの総督に任命した。そうして命令した。ユダ・マカバイを殺し、ハシダイを蹴散らし、アルキモスを大祭司の座に就けよ、と。
 この人事と命令を知った、かつてユダ・マカバイのところにいたがいまは離れているユダヤ地方の異邦人たちが、これは自分たちにとって都合の好い事態になる、と踏んでニカノルのところへ集まってきた。

 マカ二14:15-25〈ニカノルとユダの和解〉
 ニカノル来襲。それを知ったユダヤ人は主に祈った。そうしてデサウ村の近郊で剣を交えた。
 シリアの将ニカノルはユダヤ人が勇猛果敢なること、祖国のためには命を投げ出す覚悟でいることを聞いて知っていたので、血と力による事態の解決を避けたい、と思った。そこで3人の使者を遣わして、ユダヤ側に和平を提案した。ユダヤ人はこの提案を熟慮検討した上で受け入れることにした。
 指揮官だけで会見する日程が組まれた。ユダヤ側が危惧したシリア軍の突然の襲撃はなかった。ニカノルはユダ・マカバイをなかなかの好人物と思い、信頼を置いた。ユダ・マカバイがこの時期結婚を決め、しばらくの間平穏に暮らしたのは、ニカノルから結婚して家庭を持つよう奨められたからであった。

 マカ二14:26-36〈アルキモスの讒言とニカノルの裏切り〉
 ニカノルとユダ・マカバイの友情を快く思わぬ人物が一人いた。アルキモスである。そこでかれはデメトリオス王の許へ行き、斯く訴えた。曰く、ニカノルの思惑と国策は相容れぬものです、ユダ・マカバイを自分の後継者としたのですから、と。
 デメトリオスは激怒した。王はニカノルに書簡を送り、ユダヤとの和解を不服に思うていることを伝え、即刻謀反人ユダ・マカバイを首都アンティオキアへ囚人として連行すべし、と命じた。
 嗚呼!
 「この知らせがニカノルに届くと、彼は困惑し、ユダは何ら悪事を働いていないというのに、いったん取り決めたことを破棄しなければならないのか、とすっかり途方に暮れた。しかし結局、王に逆らうこともできず、策略をもって王命を遂行すべく、折をうかがうことになった。だがマカバイの方も、ニカノルが自分に対して急にとげとげしくなり、会うごとに態度が粗野になったのに気づき、このようなとげとげしさは、決して自分にとって芳しいことではないと悟り、少なからぬ部下と共に、ニカノルから身を隠してしまった。」(マカ二14:28-30)
 ニカノルは私情を抑え、王の命令を遂行するため神殿に乗り込んだ。折しも祭司たちがいけにえをささげているところだった。祭司たちが、ユダ・マカバイは不在で居場所は知らない、というと、ニカノルは右手を掲げてこう言った。「もし囚人ユダを引き渡さないなら、この神の聖域を跡形もなく打ち壊し、祭壇を粉々に破壊し、ここに目もくらむようなディオニソスの神殿を建ててやる」(マカ二14:33)と。そうして立ち去った。
 祭司たちは手を天に差し伸べて、常にユダヤ民族と共に在って戦ってくれる神なる主に、再び神殿が汚されることがないよう祈った。

 マカ二14:37-46〈ラジスの死〉
 さて。その頃のエルサレムの長老に、ラジスという人がいた。「この人は祖国を愛する者で、その評判は非常に良く、その同胞愛のゆえにユダヤ人の父と呼ばれていた。事実彼は、抵抗運動以前にも、ユダヤ教のゆえに身に裁きを招いたが、身も心も献げて熱心にユダヤ教を守った。」(マカ二14:37-38)
 ニカノルはユダヤ人への敵意を公然と示すため、見せしめとしてラジスを捕らえて処刑しようとした。それこそがユダヤ民族への打撃である、と考えたからだった。
 ラジスは捕らえられる直前、自ら命を絶って潔く死を選ぼうとした。かれは剣の上に身を投げた。が、急所を外したので失敗した。次に城壁から身を投げてみたが、未遂に終わった。それでもラジスは自ら命を絶つことに執念を燃やした。息も絶え絶えに、凄まじい形相で立ち上がると、群衆の間を走り抜け、高い岩の上に立つと振り返り、群衆目がけて自分の臓物を投げつけた。そうして、「命と霊とを支配しているお方に、これらを再び戻してくださるように、と祈りつつ息絶えた。」(マカ二14:46)
 極めて敬虔なるユダヤ人、エルサレムの長老の一人ラジスの死にまつわる挿話。

 一旦は結ばれた友情の破棄。ニカノルはどんな思いで主君の命令に従うことを決め、ユダ捕縛を決意、神殿へ(おそらくは一人で)乗り込んでいったことでありましょう。それともこれは感傷的な想像でしかないのでしょうか。
 果たして人間は、一度相手に抱いた好感を第三者の介入によって完全に捨て去り、真逆の感情のみに心動かされて思考・行動するなんてことができるのでしょうか? これが友情という程のものに限らず、普遍的な意味合いでの人間関係に於いて、であります。幾許かの想いは残滓の如く心のなかに澱みたく残ると思うのですが……。
 それともこれはまだ自分が完全なる背反に出会うたことがない幸せ者のゆえの楽観的な考えだというのでしょうか? 人間とは実に不思議かつ理不尽な生き物でありますね。
 ラジス──! なんとシットコムを想わせる挿話なのでしょう! 読んでいて唖然とさせられ、沸々たる笑いに囚われてしまったことでありますよ。
 こう言っては失礼ですが、ラジスの挿話はコメディのようにしか読めません。最初の剣のときに見事、本懐成就となっていればまだ胸を打つこともあったかもしれません。が、そのあとに続く一連の自殺未遂劇、挙げ句の果てに自分の臓物をシリア勢に投げつけるなど、場面の一々を想像したらこれを笑劇と勘違いしてしまうのも宜なるかな、という気が致します。これをどうやれば信仰に殉じた一人の敬虔なるユダヤ人のエピソードとして読めるのか。強い抵抗を感じます。
 描写を徹底的に行いさえすれば、それなりに読める/観られるシチュエーション・コメディ(シットコム)となり得るでしょう。誠、聖書は創作の源泉と申せましょう。しかし、実に脱力させられる挿話でありますな。呵々。



 昨夕の小田急線脱線は同僚たちの帰宅の足をも狂わせたらしい。まともに夕方の帰宅ラッシュにぶつかったから当然かもしれぬが、件の車両に乗客が一人もいなかったことが幸い事と言えようか。運転士も特に怪我等はなかった、と仄聞する。
 が、乗客なし、負傷者なし、ということを手放しで安堵するわけにもいかない。事故はいつだって起こり得る。乗客を乗せた状態で脱線事故を起こされてはタマッタものではない。そのなかにわれらの知る人が誰も乗っていないという保証はない。
 同僚はもちろんのこと、秦野の友がその事態に巻き込まれぬことを切に祈る。そのとき本ブログのことを思い出してくれたら、あなた、教えてほしい;わたしは無事である、なんとか無事でいます、と。安心してほしい、コメントは公開しないから。
 月並みな台詞になるけれど、一日も早い原因究明と事態の収束、そうして再発防止を願う。友なる人々がこれからも安全に乗車できるようにするためにも、必ず。

 あしたは待ちに待った完全なる休日! 買い物して映画観て、充実した土曜日を過ごすのだ。天気は……うむ、どうやら曇りのち雨ということだ。おまけにいまはにわか雨(予報)。うぅむ、まぁ、この時期らしくてよいではないか。むろん、負け惜しみである。◆

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