第1675日目 〈知恵の書第4章2/2:〈神に従う人の若死に〉、〈神を信じない者の末路〉withS.キング『グリーン・マイル』(小学館文庫版)を買いました。〉 [知恵の書]

 知恵の書第4章2/2です。

 知4:7-15〈神に従う人の若死に〉
 不義の人の若死にには希望というものがなく、裁きの日が来ても救いは訪れない。では、神を信じ、従う人の若死にの場合はどうか。
 若死にであっても、それが神に従う人なら安らかに憩う。長寿ゆえに誉れがあるのではない。年数によってそれが測られるわけでもない。「人の思慮深さこそ白髪であり、汚れのない生涯こそ長寿である。」(知4:9)
 ──かつて神に愛されていた義の人がいた。かれは罪人たちのなかで育ち、まだじゅうぶん若いうちに天へ召された。まわりの罪人たちの悪がかれの心を染めたり、偽りがかれの魂を惑わさぬうちに、神はかれを天に召したのである。というのも、「悪の魅力は善を曇らせ、/渦巻く欲望は純真な魂をかき乱す」(知4:12)からだ。
 かれの人生は短かった。かれの汚れなき生涯こそ長寿の誉れと称すに値する。かれの魂は主の御心にかなった。主は、罪や悪に蝕まれる前にかれを罪人たちのなかから取り除いたのだ。
 しかし、人々はこれについてなんら思うところも理解するところもなく、この出来事を心へ留めることもしなかった。主に選ばれた人にのみ恵みと憐れみはあり、主に清められた人にのみ主の訪れがあることを、かれらは知らなかった。

 知4:16-20v
 不義の人々は義の人が逝ったのを見ても、なんの考えも抱かない。義の人の主への想いを知らず、よしんばそれを知っていたとしても、どうして主が自分たちのなかからかれを選んで連れて行ったか、その本懐に考えを巡らせることもできない。
 悪人たち、不義の人々にできるのは、義の人の最期を嘲笑するのが精々だ。しかし、かれらは自分たちが、神なる主の嘲笑の的になっていることを知らない。やがて、「彼らは不名誉なしかばねと化し、/死者の中で永遠に恥を受け」(知4:19)、「おののきながら罪の裁きを受け、/不法のゆえにあからさまに断罪される。」(知4:20)
 そうしていつしか、かれらは生きている人々の記憶から消し去られる。

 フランシスコ会訳の傍注に拠れば、知4:10にある、神に喜ばれて早くに天へ召された人物とは、創世記第5章に名の載るエノクである、という。エノクは息子メトシェラを設けたあと300年、神と共に歩んだ。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創5:24)かれは365歳で逝去した。かれはアダムから数えて7代目の子孫。創5を読むと、前後の者たちよりずっと若くして逝っている。父イエレドは962歳まで、息子メトシェラは969歳まで生きた。他も然りで、800歳代か900歳代で世を去っている。
 フランシスコ会訳がいかなる根拠あって斯く傍注したのか未詳だが、真偽はともかくそこにはなんらかの根拠があったはずだ。過去の学説や伝承など、さまざまにあったはずだ。それを簡単でいいから示してほしかった。むろん、エノクのように神の定めた義の道を正しく歩み、神によって早くその命を摘まれた者は、聖書を読んでいてもそうそういるわけでないから、フランシスコ会訳がかの箇所の傍注で、それがエノクであることを指摘するのも宜なるかな、というところであるが。
 なお、新約聖書に収められる「ヘブライ人への手紙」第11章第5節には、エノクを讃える文言があります。エノクはいちばん古い時代にあって神なる主の前に忠実であった人、として紀元後の人々は覚えているのでありましょう(「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」ヘブ11:5)。
 悪は善を蝕む──古今東西、普遍の理であります。人は育てる人、育った環境によって、善にもなり得るし、悪にもなり得る。しかも、後者の方がよほど簡単です。悪に落ちるには考えることをやめればいいだけの話ですから。いったん転落したら歯止めが効きません。そのまま、蟻地獄に落ちてゆく虫のように底まで行き着くのみです。途中で手を差し伸べてくれたり、これまでの自分を律して正す出来事と遭遇できた人は幸いでしょう。
 どんなに正しく、優しい人でも、悪の誘惑に耳を傾けてしまうときがある。悪にはどんなに正しい人をもねじ曲げてしまうだけの魅力がある。悪は甘やかで、強大で、狡猾です。正しい人、素直な人、健全な人が簡単に悪に魅せられ、染まり、転落して帰ってこなかった例を、われらは幾らでも知っている。歴史を繙かずとも、ワイドショーや新聞の社会面などでお馴染みの話題ですからね。映画でいえば、アナキン・スカイウォーカー=ダース・ヴェイダーあたりですかね。
 ──新共同訳聖書の余白に書いたことでもあるのですが、知4:16-20は暗記・暗唱に適した警告と改悛の件であります。以て自省せよ。……とはいえ、人はどこまで本心から敬虔になれるだろう。時代や環境に流されず、自己を持ち続けられる人がどれだけいるだろう。現代に於いては信仰は堅固でなくとも構わぬ、道徳的・法律的に不義さえ働かなければそれで良い、ということになりましょう。しかしそれは、人間として極めて当たり前のことですよね?



 小学館文庫の新刊、S.キングの『グリーン・マイル』上下巻を購う。いつの間にやら新潮文庫万全6巻は品切れになっているのですね。聞けばキング作品の過半が新潮文庫では読めなくなっている、という。世も末だぜ。
 どの程度訳文の改めが行われているのか不明だが、それを教えてもらう意味でも白石朗による訳者あとがきは欲しかった。作家や大学教授、タレントのお喋りはいらない。そんなの他でやってくれ。とは言え今回の冲方丁の解説は、久しぶりに翻訳小説で熱あり骨あるものを味わえた気分でいる。
 『グリーン・マイル』は半年間連続刊行された新潮文庫版も愛蔵版として出た単行本も、両方架蔵し、それぞれじっくりと読書の喜びを堪能させていただいた。来週の連休で家にこもって読む本は決まった。『グリーン・マイル』の小学館文庫版である。日課(?)である聖書読書と原稿執筆はちゃちゃっ、と終わらせて、長い午後はじっくり腰を据えて久々のキング小説を読もう。映画は長いが、原作は長くないのだ(呵々)
 ──もっとも、キング小説でこの3年ほどに刊行されたものは、長編、中編集いずれも未読で箱詰めされているので、『グリーン・マイル』の前にそれらを読め、という声も事実聞こえているのですが、……まぁ、人生いろいろ、事情もいろいろ、都合もいろいろ、言い訳もいろいろ、ということで、ご勘弁ください。えへ。◆

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