第1676日目 〈知恵の書第5章:〈神に逆らう者の後悔〉with吉田秋生『海街diary』、実写映画化に思う。〉 [知恵の書]

 知恵の書第5章です。

 知5:1-23〈神に逆らう者の後悔〉
 裁きの時、神に逆らう者たちの前に、神を信じ従う人々が立つ。大いなる確信を胸にして、かつて自分たちを虐げ、労苦を蔑んだ不義の者たちの前に。それを見た神に逆らう者たちは恐怖する。そうして自分たちの過ちに気附き、嘆いて、いう、──
 われらはかつて義の人を中傷し、あざ笑った。かれらの生き方を狂気の沙汰と考え、かれらの死を恥辱と見なしていた。が、実際はそうではなかった。われらの生き方こそが狂気の沙汰であり、われらの死こそ恥辱であったのだ。
 「我々はまことの道を踏み外した。/義の光は我々の上に輝かず、/太陽も我々のためには昇らなかった。/我々は不法と滅びの道をひたすら歩み続け、/道なき荒れ野を突き進んだ。/主の道を知ることがなかったのだ。」(知5:6-7)
 むかしのわれらの行いがどれだけのものであったのか。驕りも勢いも、富も名誉も、顧みれば空しいものであった。われらはこの世へ生まれてもなに一つ徳の証しを残さず、自らの悪に身を滅ぼすことばかり行い、死の瞬間を目前に迎える。
 われらの希望ははかなく過ぎ去る、船の竜骨に砕かれる波しぶきのように。が、神に従う人の希望は永遠である。かれらは主なる神から報いを受け、輝かしい王位を授かる。その御手から王冠を戴く。主は自らの手でかれらを守る。主は激しい怒りを剣に変えて叛逆する者たちを裁く。宇宙はそれに味方して愚か者どもへ戦いを挑む。かれらの不法によって全地は荒れ野と化し、かれらの悪行は権力者たちの地位を覆す。

 わたくしは今日この短い章を読んでいて、何度も本書が「知恵の書」であり、旧約聖書でずっと馴染んできた預言書や、或いは「ヨブ記」でないことを確かめねばなりませんでした。それぐらい通じ合うものを感じていたのです。
 信仰の道を選ぶこともできたであろうはずなのに、まわりの環境や自分を取り巻く人々の影響を被って、選ぶと選ばざるとに関わらず、そちら側へ行ってしまい再び戻ることかなわなかった人らを不義の人と呼ぶとしたら、引用箇所でもある嘆きの言葉が真実味を帯びてくると思うのであります。それは預言書や「ヨブ記」に組みこまれていてもなんの不自然を感じさせぬものなのであります。もしよろしければ、それらを併読されてみると良いと思います。



 HUFF POSTで知ったときはなにかの冗談であろう、と読み流していたのですが、やはりそれはどうやら現実だったらしい。吉田秋生の『海街diary』(小学館フラワーコミックス)が実写映画化される。
 ──この一報に触れて『ラヴァーズ・キス』を想起した人は、どれだけいただろう。思い出すというても肯定的な意味合いではなく、徹頭徹尾否定的な形での思い出し。『海街diary』も同じ末路をたどるのか? そんな杞憂をいまも胸の片隅に抱いている。
 優れた原作ゆえに実写化されることの弊害は大きい。その原因が脚本や演出に求められることがある。が、同じぐらいミス・キャストに拠る弊害も見過ごせない。『ビブリア古書堂の事件帖』のTVドラマ化は近年でもその弊害をいちばん被った作品である。
 翻って『海街diary』も実に微妙な配役なのだ。是枝裕和監督は「いま誰をいちばん撮りたいか」を優先させてキャスティングした由。コミックナタリーHPでは、主演4人が顔合わせした際のことが述べられているが、これを何度読んでも、胸のなかのもやもや感、釈然としない気分は拭えない。長女/香田幸;綾瀬はるか、次女/香田佳乃;長澤まさみ、三女/香田千佳;夏帆、という配役に違和感を覚えぬ人が、原作を読んできた人たちのなかに果たしてどれだけいるのか? 殊、綾瀬はるかと夏帆……大丈夫なのか、このキャスティングは!? ──姉妹のなかで文句なしに、その配役に納得できるのは四女・浅野すずを演じる広瀬すずだけ。演技を観てもいない女優であり、容姿と雰囲気だけで納得させられてしまうのも、なんだかなぁ……という感じだが。
 むろん、原作と映画は別物だ。映画がすばらしければ原作も同じぐらいにすばらしいから是非読んでみてよ、と喧伝できるし、映画が駄目なら原作と異なる点を多々挙げて原作原理主義に立ち返ることが可能だ。わたくしはこれを度重なるキング映画への失望と称揚から学んだ。『海街diary』はどうなるだろう。まずはなにを置いても映画館へ足を運ばねばなるまい。すべてはそれからだ。
 公開は来年、2015年初夏(予定)とのこと。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。