第1678日目 〈知恵の書第7章&第8章1/2:〈ソロモン王の出生は皆と同じ〉、〈知恵の値打ち〉&〈知恵の特質〉with村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』を読みました。〉 [知恵の書]

 知恵の書第7章と第8章1/2です。

 知7:1-6〈ソロモン王の出生は皆と同じ〉
 出自がどうあれ、身分がどうあれ、わたしも他の人々と変わるところはない。父の種が夫婦の営みによって母の胎に入り、10ヶ月の間そのなかにあって形となったのである。
 他の人々同様、苦しみの地にわたしは生まれた。他の人々が吸うのと同じ空気をわたしも吸って育った。生まれたときはわたしも皆と同じように産声をあげ、産着と心遣いに包まれて育った。
 「だれにとっても人生の始まりは同じであり/終わりもまた等しい。」(知7:6)

 知7:7-22 1/2〈知恵の値打ち〉
 祈ると悟りが与えられた。願うと知恵の霊が訪れた。
 わたしは世の中のどんなものよりも知恵の価値は優る、と思うた。金銀財宝、富や地位、名誉や名声、健康や美貌などにも優るのが知恵である、と思うた。
 わたしは光よりも知恵を尊んだ。知恵の輝きはゆめ消えることがないからである。
 「知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。知恵の手の中には量りがたい富がある。」(知7:11)──知恵はすべての善、あらゆる富の、産みの親である。
 わたしはこの世に存在するあらゆる事物のことを、知恵によって学んだ。森羅万象についてのさまざまな知識を、知恵によって得た。
 すなおな心で学んだすべてを、惜しむことなく伝えよう。わたしは知恵の富を隠したりはしない。人間にとって知恵はまさに、汲めども尽きることなき宝である。知恵を手にする者は神の友、かれは知恵がもたらす教訓によって自らを高める。

 「知識に基づいて話す力、/恵みにふさわしく考える力を、/神がわたしに授けてくださるように。」(知7:15)

 知7:22 2/2-8:1〈知恵の特質〉
 知恵に宿るは理知に富む聖なる霊。愛に満ち、堅固で、善を行う霊。すべてを成し遂げ、すべてを見通す。
 「知恵は神の息吹、/全能者の栄光から発する純粋な輝きであるから、/汚れたものは何一つその中に入り込まない。」(知7:25)
 知恵は代々に渡って清い人のなかへ住み処を見附け、神の友と預言者を育てる。知恵はなににもまして美しく、知恵はなににもまして輝かしい。

 本章と次章がソロモン王に仮託された章。知恵者、知恵文学の著者に擬えられるソロモンの躍如たる箇所だ。伝承をそのまま信じてこれらをソロモンの台詞として読めば、ここに居並ぶやや威丈高ながら納得尽くしの文言も、その凜とした調子、経験と見聞によって蓄えられた含蓄ある言葉に首肯させられるところ大なのであります。
 知恵は預言者を育む。預言者たちは皆神なる主の召命によってその役目に就くことを定められた人たちであります。しかしこれを読むと、召命以前よりその備え、心構えというか心の土壌を<知恵>によって用意されていたのだ、と考えられていたようですね。その過程で預言者たちの人格、思想、個性というものが形成されていったのでありましょう。
 ──本稿を仕上げるまで約2時間。ちょっと難渋しました。少しく現実逃避をしたことも小さな声で告白しておきます。改めて斯様な教訓書、知恵文学のノートの難しさを実感しました。それにしても、「箴言」や「コヘレトの言葉」のときって、こんなに考えも筆が行きつ戻りつしたっけっかなぁ……。



 村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)を読み終えました(これで残るオリジナル短編集は2冊!)。みんな、そんな出来事があったことさえもう忘却の彼方に押しやっているかも知れないけれど、20世紀末、日本は大きな震災に見舞われた。平成7(1995)年1月17日未明、神戸を中心として発生した阪神淡路大震災であります。
 村上春樹は同年に発生したオウム真理教に取材したノンフィクションを発表し、小説という形ではまずこの震災をモティーフにした連作短編を続けざまに発表した。このあたりが著者がいちばん社会にコミットする姿勢を見せた時期であり、その所産がオウム真理教に於いては『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』であり、阪神淡路大震災に於いては本書『神の子どもたちはみな踊る』であったのでした。
 ゆえに本書所収の短編では、登場人物がなんらかの形で心のなかに、瑕疵としての震災を爪痕のように残している。むろん、直接的に震災に遭遇した人は一人として出てこない。当たり前だ。それに直接取材した小説を村上春樹は書けないだろう。書けない、というよりも、書かないだろう、という方が正確かも。現実にあった出来事をそれが起こった場所を舞台に据えて、それに見舞われて絶望し、それでも立ちあがって復興を恃む人々の物語を、村上春樹が書くとは思えない。むしろそれは村上龍の仕事だろう。
 収録作は全6編。なかでも有名なのは海外でも世評が高いという「かえるくん、東京を救う」だろうが、わたくしはあまりこの短編を好まない。集中的に読書へ取り組み始めた頃に読んだ「初めての文学」シリーズで、わたくしは初めて本編と出会った。が、著者自選で編まれた「初めての文学」所収の他作品同様、「かえるくん、東京を救う」もそれ程のものとは思えなかったのである。どうしてだろう? 場面場面で、ほお、と思うところはあるのだけれど、どうしてもそこから先に行かない。感銘するところがない。これは致命的だ。今回何年ぶりかで読み返したわけだけれど、その所感はなんら変わるところがなかった。また改めて読めば、感想も変わるかな……。
 ではなにが良かったの? そうだな、心のなかに個々の場面と共に、読んで良かった、という明確な思い出が残っているのは、「アイロンのある風景」と「蜂蜜パイ」だろう。次点で「タイランド」を入れてもいい。もうたまらなく好きなんですよね。自分でも確とした理由を見出せないぐらい、見出そうと努力すると途端に思いも考えも視力も鈍るぐらいに。
 夜の海岸で焚き火する人たちの胸に去来する哀しみ。準仮想家族を演じる人たちが求める人肌のぬくもり。どれも痛切だ。作者は本書に収録された各短編にて、傷を埋め合わせるかのように誰かを求め、誰かとふれあうことを欲する人たちを描いた、と思う。それは回り回って、つまりは読み手である自分がいちばん希求する事柄が、自ずとそれを内包する作品を見附けて喜んだということでもあるのであります。
 顧みれば村上春樹の短編集をまるまる一冊読み返してみよう、という気にさせられることはこれまでなかったように思います。そんな意味で、本書は最初の一冊でありました。かえるくん、好きになれるかな……。
 それにしても文中に紛れこませた、どうしてだろう、って言い方は、如何にも村上春樹的ですね。呵々。◆

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