第1681日目 〈知恵の書第10章:〈人類の始祖と知恵〉、〈イスラエルの始祖と知恵〉&〈エジプト脱出と知恵〉withみくらさんさんか、古典講読について思う。〉 [知恵の書]

 知恵の書第10章です。

 知10:1-5〈人類の始祖と知恵〉
 知恵は、世の父として最初に現れた人を過ちから救い、万物を治める力を与えた。知恵は、怒りにまかせて弟を殺した者を見捨てた。知恵は、義人を水に覆われた世界から救うために方舟を造らせ、乗せた。

 知10:6-14〈イスラエルの始祖と知恵〉
 或るとき、諸国民が天まで届く塔を造ろうとしたが、神により混乱させられたことがあった。その後のことである。
 知恵は、一人の義人に目を留めた。神の前に正しくあることを守り、わが子を奉献する段にあっても情に流されない力を、知恵はかれに与えた。
 その甥もまた義人同様神の前に正しくある者だったので、神に不敬虔で堕落した者らが住む町を滅ぼす際、知恵はかれを救った。罪深き者らは町と共に焼かれ、或る者たちは不信仰な魂の証拠として塩の柱となった。
 「知恵を見捨てたあの人々は、/罰として善の識別ができなくなったばかりか、/愚かさの証拠までも世に残した。/それで彼らの悪事は隠れもない事実となった。」(知10:8)
 知恵は、兄の怒りから弟を遠い地へ逃れさせた。そこでかれを正しく導き、神の国を示し、聖なる事柄についての知識を授けた。労苦により繁栄をもたらし、手の働きによって豊かさをもたらした。知恵はかれを守った。
 また、知恵は、神とかれを激しく格闘させた。その試みを通して知恵は、神を信じる力こそすべてに優る力であることを悟らせた。
 知恵は、兄弟に裏切られて売られた義人を見捨てなかった。かれは売られた先のエジプトで鎖につながれたが、知恵はかれを救いだし、ファラオの信を得させた。そうして永久の栄光を与えたのである。

 知10:15-21〈エジプト脱出と知恵〉
 知恵は、迫害者から咎なき僕の民を救い出した。
 知恵は、一人の義人を選び、ファラオに対抗させた。ふしぎな業と10の災い、迫害者たちの初子の死を以て。
 知恵は、寄留の清い民族にそれまでの労苦の報いとしてかの義人を頭とし、父祖の地カナンへ導いた。途中、紅海を割って渡らせ追っ手を呑ませ、かれらに神を讃える歌をうたわせた。
 「知恵が、口の利けない者の口を開き、/幼児にもはっきりと語らせたからである。」(知10:21)

 イスラエル人の歴史に知恵がどう介入し、作用したかを語る章であります。創世記、出エジプト記前半の主だった出来事が、縷々綴られます。
 それらの書物と本書の対応箇所、並びにメモを添える、──
 知10:1-2は創3:6に対応。アダムと、かれが禁断の果実を口にしたこと、エデンの園追放に触れる。
 知10:3は創4:3-8に対応。カインによる弟アベル殺害に触れる。余談ながら、ジョン・スタインベック『エデンの東』のモティーフはこれである。
 知10:4は創6:1-8:23に対応。ノアと洪水、方舟の挿話である。
 知10:5は創11:1-9、バベルの塔と、創22:1-18アブラハムのイサク奉献について触れた章節だ。
 知10:6-9は創18:16-19:29に対応。アブラハムの甥ロトと、ソドムとゴモラの滅亡を語る。本章随一の記録と警告を含む。この出来事の重要性、意味深さを改めて認識させられる。
 知10:10-12は創27:43、同32:23-33に対応。エサウへ与えられるはずの祝福を、弟ヤコブが父イサクをだまして奪い、母縁りの知ハランへ逃れる場面と、ベヌエルの地にてヤコブが神と格闘する場面に触れる。
 知10:13-14は創37:23-27、同41:全に対応。兄弟に裏切られてヨセフがエジプトへ売られたこと、その地でヨセフが宰相になり豊む者となったことを語る。
 知10:16は出7:14-11:10と同12:29-30に対応。ファラオとエジプトを見舞った神なる主の業と10の災い、初子の死について触れている。「主の僕」とは勿論モーセである。
 知10:17は出13:21-22に対応。出エジプトを果たしたイスラエルを導く神の霊、即ち、火の柱と雲の柱に触れる。
 知10:18-19は出14:15-31に対応。紅海(葦の海)が割れて露わになった海底をイスラエルは進んでシナイ半島へ脱出し、追ってきたファラオ率いるエジプト勢は元へ戻らんとする海に呑みこまれてしまった。映画や物語で有名なシーンである。
 知10:20は出15:1-21に対応。モーセの姉ミリアムの音頭によりイスラエルの民がうたう<海の歌>、主を讃える歌に触れた箇所である。
 ──このあと、出エジプトを実現させたイスラエルは“乳と密の流れる地”カナン目指して歩み、シナイでの十誡を経て、「荒れ野の40年間」を過ごすこととなる。
 もし時間があれば対応箇所の読書も併せて行っていただけると嬉しく思います。



 学生だった頃、時間割には日本の古典講読のコマがありました。必修でした。一々出欠を取っていたことと、受講が必修だったこともあり、雨の日も風の日も雪の日も、電車遅延の日も休まず学校へ通った。
 その経験を通していまでも「良かった」と思えるのは、古典に取り組む知力と体力を得られたこと。単にテキストを読むのではなく、歴史背景や考古学、書誌学等も視野に入れて、対象となる作品に接すること。
 顧みてカリキュラムには、聖書の講読も一般教養に組みこむべきだと思うみくらさんさんかの弁。◆

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