第1687日目 〈知恵の書第15章1/2:〈神は不滅を与えてくださる〉&〈偶像崇拝の愚かさ〉withサー・サイモンの功績は?〉 [知恵の書]

 知恵の書第15章1/2です。

 知15:1-6〈神は不滅を与えてくださる〉
 神を信じて正しくあろう。われらは嗣業の民、われらはあなたを信じる。
 「わたしたちは、たとえ罪を犯しても、/あなたのもの。あなたの力を知っている。/でもわたしたちは罪は犯さない。/あなたに属することを知っているから。/あなたを知ることこそ全き義、/あなたの力をわきまえることこそ不滅のもと。」(知15:2-3)
 われらは、悪人の企み事にも職人の造る肖像にも、惑わされることはなかった。不敬虔な愚か者だけがそれらに心動かされ、惹かれて悪の道に陥った。
 悪を愛する者たちにはむなしい希望こそがふさわしい。

 知15:7-13〈偶像崇拝の愚かさ〉
 焼き物師は苦労して粘土をこね、それを用いてさまざまな生活の道具をこしらえる。かれは同じ粘土からむなしい神を、不当な労力を用いてこしらえる。
 粘土の材料は土である。人は土から生まれ、土に戻る。この焼き物師自身も然り。なぜならば、人はこの世での生活が終わったらば、借りていた魂を返済しなくてはならないからだ。
 が、焼き物師はそんなことに一片の興味も抱かない。かれが関心を持っているのは、金銀の細工師と技を競うたり、銅の細工師の技を真似ること。そうしてかれは偽物をこしらえる。かれにとってそれは、実に名誉なことであった。
 「彼の心は灰、その希望は土よりもむなしく、/その命は泥よりも卑しい。/なぜなら、自分を造ってくださった方、/活動する魂を吹き込んでくださった方、/生かす霊を注いでくださった方を、/知るに至らなかったからである。」(知15:10-11)
 かれは、人生を遊びと思い、生活を金儲けできる催事と見做し、金儲けできるなら悪と手を結ぶこともためらわない。それでもかれは、よくわかっているのだ。自分が罪を犯していることを、他の誰よりも。

 読んで一々深く首肯させられるところであります。なにか言い足すことも、読後感など認めることも、いまのわたくしは不要に思うというのが本音。
 それでも感想を強いられれば、以て他山の石とせよ、というに留めましょう。



 ん、カラヤンの映像があるぞ? いつの間に?
 ……ベルリン・フィル・デジタル・コンサート・ホールのHPを久しぶりに見ていたら、そんな発見をした。収められるはブラームスの交響曲全集やドヴォルザークの交響曲第9番《新世界より》、1978年のジルヴェスター・コンサートなど。
 先日、クラシカ・ジャパンでカラヤンのドキュメンタリー番組を観たばかりということもあって、一刻も早く視聴したいのだが、如何せん見出したる場所、そうしていまこの原稿をMBAで書いている場所は、残念ながら、MacBookを全店舗公認PCに認定したという噂もあるスターバックスである。
 それがどのような問題を引き起こすかというと、再生しても音を出せず、出せても環境的に響きを追い求めることは不可能であることに加え、これがいちばん懸念されるべき問題なのかもしれないが、閉店時間が約45分後に迫っている、という避けがたき事実である。というわけで、iPodのイヤフォンを外してMBAにつなげ、トレーラーを鑑賞するに留めた。が、それでもカラヤン・マジックの底力はじゅうぶんに味わうことができる。かれの振るタクトに喰らいついてゆくベルリン・フィルの重量級のサウンドを堪能できる。
 嗚呼、早く帰宅して改めて鑑賞したい!! ならさっさと帰れ、といわれるだろうが、いま外は大雨である。雷である。帰るにちょっと勇気を振り絞らねばならぬぐらいのものだ。だから、もう少しここで原稿書きという大義名分の下、雨をやり過ごす努力をしてみようと思う。呵々。
 閑話休題。
 ラトルの勇退が告げられて1年半が経とうとしている。後任選びは来年以降と聞いた覚えがあるが、誰が選出されてもあまり代わり映えしないような気がするのはわたくし一人だけなのかな。かつての巨匠スタイルはもう今日のオーケストラには馴染まないだろうし、そもそもそれだけの力量を持った指揮者がいったい存在するのか。
 前任者アバドの場合、かれの癌告白以来ベルリン・フィルは生まれ変わったように気迫と生気みなぎる演奏を繰り広げた。
 ラトルの場合はどうかといえば、ちかごろのベルリン・フィルとの演奏を聴いてみても、なんだか消化試合の様相を呈している風に感じられてしまう。
 いったいラトルはベルリン・フィルと過ごした12年、なにを残したのだろう? たしかに、いろいろ変革は行われた。教育プログラムや自主レーベル、デジタル・コンサート・ホールなど、時代風潮と技術革新を背景にベルリン・フィルは新しい事業を立ち上げ、それを軌道に乗せた(ようである)。
 が、それはあくまで音楽に付随するものでしかなく、肝心の音楽面ではどうかというと、小首を傾げざるを得ない状況なのだ。好んで聴いている音盤はあるけれど、ラトルが音楽監督就任後にリリースした数々のCDのなかで、わずかな数に過ぎない。
 とはいえ、まだ任期は4年ある。それまでに、さしてラトルを好まぬ者をも虜にしてくれるような演奏と出会えればいいな、と思う。まずは来シーズンのオープニングに予定されているブラームスとシューマンの交響曲ツィクルス、来年に予定されているシベリウスの交響曲ツィクルスを楽しみに待とう。あと、先日クラシカ・ジャパンで放送されて録画したままな、ルツェルン音楽祭で披露されたモーツァルトの後期3大交響曲もね。
 うぅん、しかしサイモン・ラトル。なぜこれ程までもわたくしの興味を刺激しない指揮者なのだろう?

 ──スタバ閉店まであと12分!◆

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