第1691日目 〈知恵の書第18章2/2:〈敵の死と民の救い〉&〈民の仲介者〉with今日のブログ原稿の反省。〉 [知恵の書]

 知恵の書第18章2/2です。

 知18:5-19〈敵の死と民の救い〉
 敵、即ちエジプトは、あなたに清められた人々の乳飲み子を殺そうと謀った。しかし、代償は大きい。あなたが御業で敵を襲うあの夜の訪れを、イスラエルは先祖の代から知っていた。為にかれらも安んじてその日の来るのを待ったのだ。「神に従う人々の救いを、敵どもの滅びを、/あなたの民は待っていた。」(知18:7)
 敵への罰の数々はイスラエルにとって光栄となった。
 主がエジプト中の家という家を過ぎ越してゆく際、エジプト人の初子をことごとく打ったため、国中に子供を悼む声が途絶えなかった。
 この事件に先立って預言者モーセの指図により、聖なる民はひそかにいけにえをささげて、神聖なる掟を全員一致で守ることを決めていた。それはつまり、順境にあろうと逆境にあろうとかれら皆、心を一つにして万事に処する覚悟を決意したものであった。
 エジプト人は、上はファラオから下は奴隷まで、あなたによって同じ罰で懲らしめられた。<死>の名の下に星の数程の人が倒れ、却ってそれを埋葬する人の方が足りなくなるぐらいだった。
 「沈黙の静けさがすべてを包み、/夜が速やかな歩みで半ばに達したとき、/あなたの全能の言葉は天の王座から、/情け容赦のないつわもののように、/この滅びの地に下った。/それは、取り消しのきかないあなたの命令を/鋭い剣のように手にして、/すべてを死で満たし、/天に触れながらも、地を踏んで立っていた。」(知18:14-16)
 敵は、夢のなかで恐ろしい幻を見た。奴らは驚いた。思いがけぬ恐怖に震えた。息も絶え絶えになって、ここかしこに倒れた。夢のなかに現れた幻。それは、連衆が苦しみ死んでゆく理由を、あらかじめ奴ら自身に知らせるための幻だった。

 知18:20-25〈民の仲介者〉
 死の試練は敵ばかりでなく、あなたへ従う人にも等しく与えられる。それが証拠に、多くの人々がエジプトを出てカナンへ向かう荒れ野のなかで倒れていった。
 が、あなたの怒りも長くは続かない。一人の人が立ち、自分にゆだねられた祭司の職務を武器に、あなたをなだめたからである。然る後にかれはあなたの怒りの前に身を曝した。先祖と結んだ誓いと契約を思い出してもらい、あなたの災いを終わらせた。そうしてイスラエルはあなたの僕であることが示されたのである。
 「死んだ者は既に重なり合って倒れていた。/そのとき彼は間に立って罰の攻撃を押しとどめ、/それが生きている者に及ぶ道を断ち切った。/彼の足まで届く衣は全宇宙を示しており、/先祖たちの誉れは四列に並ぶ宝石に刻まれ、/あなたの威光は頭上の冠に輝いていた。/滅ぼす者はこれらを前にしてたじろぎ、恐れた。/民は御怒りに触れるだけで十分だったのである。」(知18:23-25)

 「知恵の書」を読んで「出エジプト記」の記述をこう何度も読み返すとは思いませんでした。後半に集中する事象ではありますが、本書とかの書物を行ったり来たりしているとき、夙にそう思うたのであります。それだけエジプトでの奴隷生活がイスラエルの身の上に取り憑いたゴーストの如きであり、カナンへ向かう途中の出来事がイスラエルにとって拭いがたきトラウマとなっていたか、そうして勿論、出エジプトを実現させるために主が降した数々の御業にイスラエルがどれだけ憧憬にも似た思いを抱いていたか、を知らしめる書物(章)というてよいのかもしれません。
 本章で語られる「出エジプト記」との関連は、むろん、過越祭と初子の死である。それがいったいどういうものであったか、同書第12章をお読みいただければ明らかでありましょう。主の過越と初子の死を語る第12章は、エジプト軍の追っ手から逃れるために葦の海が割れたり、ホレブ山で十戒を授かりモーセが山を降りてくる場面と同じぐらいか、或いはそれ以上にクライマックスと呼ぶにふさわしい出来事であります。
 まぁ、十戒はちょっと別になりますが、主と民の関わりという点では、葦の海以上に重要な位置を占めると申しあげたい。あれは映画で有名になったから人々の印象に焼き付いているのであり、劇的ではあってもそこにどれだけの神意といいますか、イスラエル民族の精神史に深く刻みこまれた出来事であるかといえば、とてもそこまでの出来事とは思えません。



 今日の反省。
 実は本書の読書もノートもさっぱりはかどらず、まったく作業に集中できなかった。途中でiPhoneをいじったり、外を歩く人たちをぼんやりと眺めていたり、妄想に耽っていたわけではない。意思を振るえば振るう程、自分のなかから<聖書>というものが消えてゆく。蜘蛛の糸にも似た縁を懸命に握りしめ、自分のなかから消えてしまわないように努める。
 が、そうではあっても、本日のノートの仕上がりに特に不満があるわけではない。MBAで浄書する際、相応に手を加えているから、現時点での決定稿と呼ぶにためらいはない。ただ、第一稿を書いているときに己が集中力の続かなさに悔しい思いをしていたのがまだ脳裏にあるため、斯く自分にお説教をしているところなのである。
 ──序でながらご報告させていただくと、「知恵の書」は明日で読了となります。◆

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