第1743日目 〈シラ書第24章:〈知恵の賛歌〉&〈知恵と律法〉with自炊する?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第24章です。

 シラ24:1-22〈知恵の賛歌〉
 知恵がいと高き方の御前での集会にて誇らかに歌う。天の万軍を前にして、知恵は誇らかに歌う。曰く、──
 わたし知恵は、いと高き方の口から出て、霧のように大地を覆った。高い天に住まい、雲の柱のなかへ座を置いた。一人して天を歩き、地下の海の深みを逍遙した。人間も、国家も、自然の営みも、そのすべてがわたしの支配下にあった。そのすべてに、わたしは自分の居場所を求めた。が、どこにも見附けられなかった。
 そのときだ、主がわたしを呼んだ。わたしを作ったいと高き方は、わたしが住むための幕屋を建てた後に呼んで、いった。曰く、ヤコブのなかに幕屋を置き、イスラエルで遺産を受けよ、と。わたしはそうした。聖なる幕屋のなかでわたしは主に仕えた。わたしは自分の居場所を見附けた。その名は、シオン。
 斯くしてわたしは主の嗣業の民イスラエルのなかへ根を下ろした。その場所でわたしは大きく育った。その場所でわたしは良く香った。その場所でわたしは、ぶどうの木のような美しい若枝を張る。そこに咲く花はやがて栄光と富の実を結ぶ。
 「わたしを心に覚えること、それは蜜よりも甘く、/わたしを遺産として受け継ぐこと、/それは蜂の巣から滴る蜜よりも甘い。」(シラ24:20)
 わたしに従う者は辱めを受けたりしない。わたしの言葉、教えを行う者は罪を犯さない。
──と。

 「この世が始まる前にわたしは造られた。/わたしは永遠に存続する。」(シラ24:9)

 シラ24:23-34〈知恵と律法〉
 これらのすべては、いと高き方、神なる主の契約の書である。往古、モーセがイスラエルの民に守るよう命じた律法であり、ヤコブの諸会堂が受け継ぐものである。
 律法はビション川やティグリス川のように知恵であふれている。律法は、ユーフラテス川のように理解力をあふれ出させる。律法は、光のように、ギホン川のように、教訓を輝かせる。
 最初に現れた人間も、最後にやって来る人間も、知恵のなんたるかを知らない。知恵の思いというのは海よりも広く、知恵の計画は地下の海よりも深い。だから、何人と雖も知恵を完全に知ることはできず、知恵を完全に突き止めることは不可能なのだ。
 わたしは教訓を曙のように輝かせ、その光をずっと遠くまで届かせよう。わたしは教えを預言のように注ぎ出し、代々に渡ってこれを残し、伝えよう。
 「わたしが苦労してこの仕事をしたのは、/自分のためだけでなく、/知恵を求めるすべての人のためでもあることを/理解してほしい。」(シラ24:34)

 これまでわれらは3週間以上にわたって「シラ書」を読んできた。心のなかに留まっている教えや表現もあることだろう。力強い語りがされたことも、さほど印象に残ることなき章もあったことだろう。すくなくともわたくしは、「シラ書」読書を振り返って、各章の思い出というのは濃淡くっきりとしている。それは概ね自分の来し方や思考にかかわるものであったけれど。ノートするにしてもその出来映えは様々で。
 シラ24は──個人的見解の相違は脇に除いておくとして──「シラ書」全体のうちで、最高峰と目されることの多い章だ。全巻の白眉と言い換えてよいかもしれぬ。その趣を損なうことなくまとめるのは、ちょっとわたくしの手に余る。ゆえ、ほぼそのままの移し替えとなったことをお許し願いたい。
 〈知恵の賛歌〉で擬人化された知恵は、イスラエルにとって恵み深き賜り物の如く取り挙げられている。これは拡大解釈せずとも即ち、知恵は主の民の(心の)なかに存在している、ということでもあろう。この点についてはいままでも縷々語られてきたところである。
 なお、〈知恵と律法〉に於いて名の出る4つの川は、いずれもエデンの園から流れ出た1つの川から別れた。知恵と理解力、教訓を教える律法は、善悪の実を付ける木のあるエデンに誕生の源を求められる、という考えにもなろうか。まあ、この点にさほど拘泥する必要はないだろう。



 自炊に興味があるけれど、抵抗もそれ以上にある。ScanSnapがあればそれだけでどうにかなるものではなく、別途裁断機が必要であるから億劫だ、とかそんな話ではない。本を解体してScanSnapにかけて読みこませて、という作業をすることに、たぶん100冊もやれば抵抗もなくなるのだろうけれど、わたくしの申しあげている抵抗とはそんな意味ではない。
 本を裁断してしまったら、古本屋に処分できないではないか。売価が二束三文でも資源ゴミを増やすよりは良いだろう。処分したあと、それが先方で如何様になろうと構いはせぬ。でも、自分の目の届く場所で裁断した本がビニール紐で括られている光景は、想像するだに哀れだ。できるならば、見たくない光景である。
 本を裁断しない非破壊的スキャンもあるというが、話を聞いていると、いろいろと手間暇がかかりそうで、不便もあると仄聞する。一長一短、帯に短し襷に長し、というところか。
 序でにいえば、裁断して読みこませて、なんて時間があるなら、処分する本の選定や他のことにその時間を使いたい、という願望もある。そちらの方がよほど時間の短縮と見切りを図ることができるだろう。一方で、自分の持っていた本がiPadやKindleで読めるようになったら、それはそれで便利なのだろうな、とも思う。まぁ、読みこませたデータが飛んだら一巻のお終いですけれどね。うぅん。、悩ましいな。◆

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