第1794日目 〈「バルク書」前夜〉 [バルク書]

 マルティン・ルターはプロテスタント会派の聖書を編纂するにあたって、この「バルク書」を正典の一つとは見做さず、外典に分類しました、真相が奈辺にあったか、わたくしはよく知りません。いまは取り敢えず、「ルターはそうした」と指摘するに留めます。翻ってカトリックはどうか、といえば、そちらでは「バルク書」を第二正典の一つとする。
 わたくしが使う聖書は新共同訳ゆえ、「バルク書」は旧約聖書続編として独立するなかに含まれています。プロテスタント系の学校や教会では、この新共同訳聖書を専ら採用しているそうですね。カトリック会派が用うる、と聞くフランシスコ会訳では「バルク書」は旧約聖書に組みこまれており、然るべき箇所──即ち「エレミヤ書」と「哀歌」のあとに置かれています。もっともこれは「バルク書」に限った話ではなく、「ユディト記」や「マカバイ記」、「シラ書」に於いても同様であります。
 わかりやすくいえば、カトリックとプロテスタントの共同翻訳である新共同訳聖書では、「トビト記」から「マナセの祈り」までの13書を<旧約聖書続編>として一括りにしますが、カトリックの方ではこれら13書のうち、最初の10書を第二正典とする。
 ちなみに、新共同訳では「バルク書」と「エレミヤの手紙」は独立した書物として収めるけれど、フランシスコ会訳では「バルク書」第6章として「エレミヤの手紙」を扱う。本ブログは新共同訳に基づいてのものになるので、両者を別々に取り挙げ、<前夜>もそれぞれに付すこととなります。
 カトリックとプロテスタントの「バルク書」の扱われ方について紙幅を取ってしまったけれど、双方ではこの書物について取り扱いを異にする、という点について触れておきました。
 そもこのバルクとは何者か? われらは既に、かれの名を旧約聖書のなかで見ている。どの書物で? 他ならぬ「エレミヤ書」で。バルクは預言者エレミヤの友人であり書記であった人だ。陰に陽に、この哀しみの預言者に付き従っていた、という印象がとても強い。
 マナフセの孫でネリヤの子であるバルク。その名の初出はエレ32:12。エレミヤはアナトトにある畑を銀17シェケルで買い取った際、慣習に従って、封印した購入証書と封印していない購入証書の写しを証人たちの前でバルクに預けた。その後もたびたびバルクは「エレミヤ書」に登場する。まるで「エレミヤ書」後半部分に於ける副主人公の如き現れ方だ。
 また、バルクは南王国ユダがヨヤキム王の御代第4年(前605年)に、エレミヤの指示により一巻の巻物を著した。その巻物には、預言者へ臨んだ主の言葉の数々が記された。かれはこれを、町々から王都へ上ってきて神殿に集まった人たちへ向けて読んで聞かせるよう、エレミヤから命じられている。かれらが主の怒りと憤りがどれ程凄まじいかを知り、かつかれらが主に憐れみを乞うて悪の道から立ち返ることを期待してのことでした(エレ36)。
 「エレミヤ書」に於いてユダがバビロニアによって滅亡した後、エレミヤに同道してエジプトへ下り(エレ43:6)、かの地で客死した、とされます。エレミヤの死ぬ様は痛みを伴うものだった、と伝えられますが、バルクはどうだったのでしょう。預言者同様にむごたらしい死を迎えたのかもしれませんが、かれの死を伝えるものはなにもないようであります。
 が、これは「エレミヤ書」でのお話。「バルク書」でバルクは、おそらく捕囚の一人として新バビロニア帝国の帝都バビロンに連れてこられ、そこに住まっている。エレミヤの死後、エジプトからバビロンへ移ってきた、と教える史的資料があるわけではありません。あくまで「バルク書」では斯く記されている、というのみであります。
 ここでバルクは荒廃したエルサレムとその周辺に残ったユダの人々へ、慰めと励ましの手紙を書き送る。章に則して言えば、悔い改めを奨め、父祖以来の知恵を讃美し、哀しみのエルサレムへの励ましがその内容。これをバビロンのなかを流れるスド川(アハワ川か)のほとりに集まった同胞の前で、バルクは読んだ。聞いた人々は涙を流した、という。断食をしてエルサレムのために祈った、という(バル1:3-5)。──わたくしもちかごろ、旅行をはさんで寝る前に1章ずつ読んでいましたが、すこぶる心震わせられたことでありました。
 では、「バルク書」の著者は果たして誰か。勿論、前6世紀を生きたバルクではない。詳しいところは聖書学者にお任せするが、書式についていえば、たとえば知恵の讃美について書かれた箇所は、前2世紀の成立とされる「シラ書」や前1世紀の成立とされる「知恵の書」などとよく似た様式であったりする、とのことで、「バルク書」も概ね前2世紀あたりに書かれたものであろうか、とされる由。旧約聖書続編に収められる書物に絡めていうなら、マカバイ戦争前夜あたりの成立ということになるか。
 著者についていえば、この時期パレスティナ地方にいた誰彼ということになろう。それは複数である可能性を、ジークフリート・ヘルマンは示唆する。かれらがどのような階層に属したか、系譜はどうか、どんな職業にあったか、などは定かでない。複数の著者によって著された断片的なものを一書にまとめた編集者が、今日われらが読むような「バルク書」の形を整えた最終的な著者であろう、と考える。
 真実を知る手段はもはや存在しないのでしょうか。
 予定よりだいぶ遅れてしまいました。それでは明日から心機一転、「バルク書」を1日1章ずつ読んでゆきましょう。◆

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