第1805日目 〈「エズラ記(ギリシア語)」前夜〉 [エズラ記(ギリシア語)]

 旧約聖書続編に載る「エズラ記(ギリシア語)」は正典「エズラ記」とやや様相を異にします。同じく歴史書に分類されるが、「エズラ記(ギリシア語)」の場合、内容は「エズラ記」と「ネヘミヤ記」を一冊にまとめて再構成した上で、更に両書にない記述を補ったものであります。
 そもプロテスタントでは完全に外典扱いで、カトリックでも第二正典に収められなかった本書。新共同訳の続編では「エズラ記(ギリシア語)」と題されるが、アポリクファまたは70人訳聖書では「第一エスドラス書」或いは「再構築されたエズラ記」と呼ばれ、ラテン語訳ヴルガタ聖書では「第三エズラ記」と呼ばれる。われらは本書のあと「エズラ記(ラテン語)」を読むが、これの別称については然るべき日に触れます。
 「エズラ記(ギリシア語)」、略称を「エズ・ギ」といいますが、本書とヘブライ語(正典)の「エズラ記」の相違点は開巻早々に現れます。南王国ユダの最後の善き王ヨシヤによる主の過越祭の再現とその死、王国滅亡が語られる。実はこの点こそがギリシア語による「エズラ記」の性格を読者に伝えるところである、と思うのであります。つまり、本書は(新共同訳の解説にもあるように)<改革の歴史>を、ヨシヤ王と帰還民のリーダー的存在ゼルバベル、そうしてエズラの3人の活動と業績を通して語るのであります。
 では、この3人が成した業績とはなにか。ヨシヤ王に於いては主の過越祭の再現、ゼルバベルに於いては第二神殿の建設と完成、エズラに於いては雑婚の禁止と律法の朗読、であります。これらを俯瞰して見えてくるのは、これらの作業がユダヤ人のアイデンティティの確立とコミュニティの再編という2点に集約されてくることであります。
 悪しきことばかり行う王の下ですっかり堕ちてしまった民に過越祭を経験させることで、再び自分たちが主の嗣業の民であることを自覚させようとしたヨシヤ王。エルサレムへ帰還して異民族の妨害に遭いながらも、第二神殿の建築を奨めて完成にまで漕ぎ着けたゼルバベル。神殿完成後にエルサレムへ来て、発覚した民の罪や不法行為を正して主へ嘆願したあと、律法を朗読したエズラ。殊、ゼルバベルとエズラの行いは、捕囚と離散を経験したことで失われかけていた民族のアイデンティティを取り戻し、ユダヤ人社会という共同体を再確立させるために必要な改革であった、と申せましょう。
 正典としていまは別の書物と数える「エズラ記」と「ネヘミヤ記」は、かつて一つにまとまった書物であった由。読み返して思い出したのですが、わたくしも第0556日目〈「エズラ記」前夜〉でその点について触れていました。それが今回読む「エズラ記(ギリシア語)」とどの程度まで一致し、どの程度まで異なっていたか、定かではありません。しかし、そんなことを想像しながら読書してゆくのも、楽しみ方の一つである、と思うのであります。なお、「エズラ記(ギリシア語)」には──どこにも見落としがない限り──ネヘミヤの名は出てきません。
 「エズラ記(ギリシア語)」の著者、成立年代や場所などはよくわからない。これらについてはもう少し勉強してみましょう。
 それでは明日から1日1章の原則で、「エズラ記(ギリシア語)」を読んでゆきましょう。◆

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