第1816日目1/2 〈「エズラ記(ラテン語)」前夜〉 [エズラ記(ラテン語)]

 「エズラ記(ギリシア語)」は旧約聖書に収められる(ヘブライ語の)「エズラ記」をベースにして、「ネヘミヤ記」などから一部増補されたものであったゆえ、比較的読みやすい書物でありました。が、明日から読んでゆく「エズラ記(ラテン語)」は多分に勝手が異なる。ヘブライ語やギリシア語がそうであったような<歴史書>ではなく、こちらは同じエズラを外題役とする<黙示文学>となる。即ちここでのかれは、書記官でも律法の朗読者でもない、預言者としての役割を担うのであります。
 エズラという同じ名を持つ別人なら胸を撫でおろし、割り切ることもできましょうが、父はセラヤ、祖父はアザルヤ、先祖にピネハスやエルアザルを持つレビ族の祭司アロンの家系となれば、もう完全に同一人物でありますから困ってしまいます。
 ラテン語訳では、エズラが持つ幾つかの<顔>のうち、預言者としての側面が強調されている、とするのが頭を悩ませずに済む捉え方かもしれません。「エズラ記(ラテン語)」の著者の考えにも、それがいちばん近いのかもしれません。が、今一つ釈然としない部分が残るのも事実なのであります。
 おそらくは、本書に於けるエズラがいつの時代に生きた人物だったのか、というところに帰り着くお話だろうか。ふしぎな話をしたようで恐縮だが、それはこういうことだ。──鍵となるのはエズ・ラ3:1-2「都の陥落後三十年目のこと、わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた。」という一文。
 都エルサレムの陥落とはいつの時代を指すのか。また、サラティエルとは誰なのか。
 エルサレムの陥落を示すこの一文には2つの解釈がある、という。1つは、われらがこれまで読んで何度となく接してきた、前587/6年の新バビロニア帝国侵攻に伴う王都陥落。もう1つは後70年、帝政ローマとユダヤの間に勃発した所謂<第一次ユダヤ戦争>によるエルサレム陥落。前者についてはともかく、後者を支持する考えも夙に知られている、という。詳細について本稿で語ることはしない。興味を持った読者諸兄が個々に調べて、知的欲求を満たせばそれでよいと思います。
 かりにどちらの説が事実であっても「エズラ記(ラテン語)」の本文は、エルサレム陥落から30年後であることは明記されている通り。となると、これが前6世紀を生きるエズラであれば時代は前550年代後半となり、1世紀を生きるエズラであれば時代は後100年頃となる。この件については決着のつかぬ点であるらしく、どちらも万人を納得させるだけの、すくなくとも大勢に導く程説得力にあふれたものはないようであります。
 時代について決着がついたとしても、残る問題は「わたしサラティエル、すなわちエズラ」という箇所である。サラティエルという人物が「エズラ記(ラテン語)」の著者ならば、それがエズラという人物に結びつけられたのはどうしてか。
 ここで「エズラ記(ラテン語)」のテクストにまつわる問題が浮上する。全部で16章ある本書のうち、最初と最後の2章は本書をキリスト教化する際に行われた加筆であり、<幻>について書かれた第3-14章が本来の部分である、という。わたくしは専門的なことは門外漢なのでこのあたりは文献を参照するよりないのだが、キリスト教化するにあたって書き加えられた箇所には、ユダヤ教とは異なる、あきらかにキリスト教的な要素が多々見受けられる、という。この点についてわたくしが特に感心して読んだのは秦剛平『旧約聖書続編講義』(1999,11 リトン)である。著者は「エズラ記(ラテン語)」の時代背景を後100年頃とする立場の人であります。
 じつは本書を粗読みしていて、1ヶ所だけ気になる箇所がありました。エズ・ラ7:28-29にある「わが子イエス」、「わが子キリスト」てふがそれ。前掲の秦の著書ではこれなども本書のキリスト教化の痕跡である、といいます。この点については当該日に改めて触れることができたら、と望んでおります。
 ──ここに登場するエズラの、最も近しい人物をこれまでに読んできた書物のなかから探すとすれば、ダニエルということになりましょうか。「ダニエル書」もまた<黙示文学>であるから斯く想起する、というのでなく、かれらの見た一連の<幻>に連続性、乃至は継続性を感じるからであります。ダニエルが見た幻の一つ──「4つの世界王国(帝国)の支配のあとに神の国による永遠統治が始まる」(ダニ7以後)──に刺激を受けて(?)、その幻のその後を続ける、もしくは更新する形で補完した、という意味合いでの連続性、継続性でありますが、そんなところから申しても「エズラ記(ラテン語)」は「ダニエル書」と遠く響き合う関係にある思想と内容の書物と思うのであります。
 本稿の執筆に先立ち、「エズラ記(ラテン語)」を読み返してみましたが、やはりこれは何度読んでも難しい。難解というよりも、一筋縄ではゆかない書物だ。一筋縄ではゆかぬ、精読するより他ない気むずかしい書物、という意味では、「エズラ記(ラテン語)」は、たとえば旧約聖書の「ヨブ記」、新約聖書の「ローマの信徒への手紙」や「ヨハネの黙示録」と並ぶ書物でありそうだ、と感じている。
 「エズラ記(ラテン語)」を、ざっと読んでみても感じられることでありますが、本書は終章に近附けば近附く程、切迫した調子になってゆく様子がうかがえます。全16章ある本書を一息に読むのは大変かもしれません。が、たとえば休みの日などに数時間を割いて読書してみれば、わたくしがここで申しあげることは体験してもらえる、と信じます。あくまでわたくしの感想ですが、殊<第五の幻>(エズ・ラ10:60-12:40)はそのあたりの頂点を形作るもの、と思うておるのです。
 ──これの前に読んでいた「エズラ記(ギリシア語)」に対応して、本書「エズラ記(ラテン語)」は「第二エスドラス書」(アポリクファ)、「第四エズラ書」(ヴルガタ聖書)と呼ばれます。新共同訳と本ブログでの略称は(今更ですが)「エズ・ラ」。
 規模ゆえにいつものように原則1日1章、といえぬのが残念でありますが、読了のその日を目指して(夢見て?)、挫けたりへこたれたりすることなく、がんばってゆきます。それでは明日から「エズラ記(ラテン語)」を読んでゆきましょう。◆

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