第1822日目 〈エズラ記(ラテン語)第9章2/2−10章1/2〈第四の幻〉:エズラの祈り〉、〈泣く女の幻〉他with誰かスイッチを押してくれ、これまでのようなエッセイを書くために!〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第9章2/2−10章1/2〈第四の幻〉です。

 エズ・ラ9:26−37〈エズラの祈り〉
 わたしは天使が言ったように、アルダトと呼ばれる野原に行き、そこで花の中に座り、野原の草を食べた。わたしは満腹するまで食べた。
 七日の後、草の上に横になっていたとき、わたしの心が前と同じように再び乱れてきた。わたしは口を開き、いと高き方の御前に語り始めた。
 「ああ主よ、あなたは、わたしたちの中で、わたしたちの祖先に御自身を現されました。それは、わたしたちの祖先がエジプトから出て、人が足を踏み入れない不毛の荒れ野を進んでいたときのことでした。あなたはこう言われたのです。『イスラエルよ、聞け。ヤコブの子孫よ、わたしの言葉に耳を傾けなさい。見よ、わたしはあなたたちの中に、わたしの律法を蒔く。それはあなたたちの中で実を結び、それによってあなたたちは、永久にたたえられるだろう。』
 しかしわたしたちの祖先は、律法を受けながらもそれを守らず、掟を守りませんでした。ところが、律法の実は滅びませんでした。滅びるはずがありませんでした。それは、あなたの律法だったからです。律法を受けた人々の方は、滅びました。自分の中に蒔かれたものを守らなかったからです。
 世のきまりでは、大地が種を受けるとき、あるいは海が舟を、器が食べ物や飲み物を受けるとき、蒔かれたもの、浮かべられたもの、器に入ったものがなくなっても、器はそのまま残ります。しかしわたしたちの場合はそうではありませんでした。
 律法を受けたわたしたちの方が、罪を犯しているので滅び、律法を受けたわたしたちの心の方が滅びるのです。律法は滅びることなく、その栄光を保ち続けるのです。」

 エズラ9:38−10:24〈泣く女の幻〉
 心の中でこう言って、目を上げると、右手の方に一人の女が見えた。この女は悲しんで大声で泣いており、深く心を痛めていた。その衣は引き裂かれ、頭に灰をかぶっていた。
 わたしは思い巡らすのをやめて、彼女に向かって言った。「なぜ泣いているのか。何に心を悩ませているのか。」
 女は言った。「主よ、私に構わないでください。泣かせてください。悲しくてしかたがないのです。私の心はひどく痛み、私はひどく卑しめられました。」
 わたしは言った。「何をされたのか。言ってみなさい。」
 そこで女はわたしに言った。
 「あなたのはしため、私は、うまずめで三十年の間、夫と暮らしましたが子どもが生まれませんでした。私はこの三十年間、毎日、毎時間、夜も昼もいと高き方にお願いしておりました。
 三十年の後、神はあなたのはしため、私の願いを聞き入れられ、私の惨めな様を御覧になり、私の苦しみに心を留めてくださり、男の子を授けてくださいました。私も夫も町の人たちも皆、この子のことをとても喜び、私たちは、力ある方を大いにほめたたえました。私はこの子を大変苦労して育てました。
 この子が成長したとき、私は息子のために嫁を迎えに行き、婚礼の日取りも決めました。ところが息子は婚姻の寝室に入ったとき、倒れて死んでしまったのです。私たちは皆、明かりを消しました。町の人々は皆、私を慰めに来てくれました。私は、次の日の夜まで気持を抑えていました。しかし、私を落ち着かせようと慰めてくれた人々が皆寝静まったので、私は夜起きて、御覧のとおり、この野原に逃げ出して来たのです。もう町には帰らず、ここにとどまっていようと思います。食べることも飲むこともしません。死ぬまで絶えず嘆き続けて断食をするつもりです。」
 わたしは、ここまで話を聞いて、それを遮り、怒って彼女に答えた。「愚か者、あなたは女の中で最も愚かだ。あなたにはわたしたちの嘆きや、わたしたちに起こったことが見えないのか。わたしたち皆の母シオンは悲しみに打ちひしがれ、ひどく卑しめられているのだ。このため大いに嘆きなさい。わたしたち皆の嘆きと悲しみを共にして、あなたも嘆くべきだ。ところがあなたは、たった一人の息子のために悲しんでいる。大地に尋ねてみよ。そうすれば大地は言うだろう。『生まれて来るこれほど多くの者たちのために嘆かなければならないのは自分なのだ』と。初めからすべての者は大地から生じ、これからも更に生ずるであろう。
 しかし、見よ、ほとんどすべての者は、滅びに向かって歩み、多くの者が滅びる。そうすると、どちらの方が深く悲しまねばならないのだろうか。一人のために嘆いているあなたよりも、このように多くの人々を失った大地ではないのか。あなたは言うであろう。『わたしの悲しみは大地のとは違います。わたしは自分の胎の実を失ったのです。わたしは、陣痛の中で、もだえ苦しみながら産んだ子を失ったのです。大地は大地の法則に従っただけのことです。大地の多くの人々は、来たときのように行ってしまったのです』と。
 しかし、それならわたしは言おう。あなたが苦しみながら子を産んだように、大地もそのようにして、初めからその実である人間を、大地の創造者のために産んだのだ。それゆえ今、あなたの嘆きを自分の中に納めて、あなたにふりかかった災いを力強く受け止めなさい。もしあなたが、神の定めを正しいと認めるなら、やがて時が来て再び子を与えられ、あなたは女の中でたたえられることになるだろう。
 さあ、町へ戻り、夫のもとに帰りなさい。」
 女は言った。「いいえ。町には戻らず、ここで死にます。」
 わたしは更に言った。「そんなことを言うものではない。シオンの失墜がどのようなものであるか、わたしの言うことを聞き分け、エルサレムの痛みを思って自分の慰めとしなさい。あなたも見ているように、わたしたちの至聖所は荒らされ、祭壇は打ち壊され、神殿は破壊された。わたしたちの竪琴の音は消え、賛美の歌はやみ、わたしたちの喜びはなくなった。燭台の明かりは消され、契約の箱は奪われ、聖なる器は汚された。わたしたちに授けられた名も全く冒涜され、わたしたちの指導者たちは侮辱を受け、祭司は焼き殺され、レビ人は捕虜として連れ去られた。おとめたちは汚され、わたしたちの妻は暴行を受け、義人たちは連れ去られ、幼子は捨てられ、若者は奴隷になり、力のある者たちは弱くなった。
 そして最悪なのは、シオンの証印のことである。神の印を押されていたシオンのかつての栄光は取り消され、わたしたちを憎む者どもの手に渡されたのだ。それゆえ、あなたは自分自身の大きな悲しみを振り払い、多くの苦悩を捨て去りなさい。そうすれば、力ある方が再びあなたを憐れみ、いと高き方があなたに安らぎを与えて、苦労をねぎらってくださる。」

 エズラ10:25−59〈幻の説明〉
 わたしが女に話していたとき、驚いたことに、突然彼女の顔が強烈な光を放ち、その姿は稲妻のようにひらめいた。わたしは彼女に対して恐れを抱き、これはいったいどういうことなのだろうと思った。すると突然女は恐ろしい大きな声をとどろかせた。大地がその音で揺れ動いたほどだった。わたしは目を上げた。すると、どうしたことだろう、もう女の姿は見えず、そこには都が建てられつつあり、大きな土台が見えた。
 わたしは恐ろしくなり、大声で叫んで言った。「初めにわたしのところに来られた天使ウリエルは、どこにおられますか。あの方が、わたしの心をこんなに耐え難いほどに乱されたのですから。わたしの望みは打ち砕かれ、わたしの祈りはかえってむなしくなりました。」
 わたしがこのように言っていると、見よ、初めにわたしのところに来た天使がやって来て、わたしを見た。そのときわたしは死人のように横たわっており、考える力がなくなっていた。
 天使はわたしの右手を取り、わたしを力づけ、立ち上がらせて言った。「どうしたというのだ。なぜ取り乱しているのか。なぜ知性も心の思いも乱しているのか。」
 わたしは言った。「あなたがわたしのことを見捨てられたからです。わたしは実際、あなたの言われたとおりに野原に出ました。すると、どうでしょう。何とも言いようのないものをわたしは見たのです。いや、今も見ているのです。」
 天使は言った。「男らしく立ちなさい。教えてあげよう。」
 わたしは言った。「主よ、お話しください。わたしが無益に死ぬことのないように、わたしを見捨てることだけはしないでください。わたしは未知のことを見、未知のことを聞いているのですから。それとも、わたしの心が欺かれ、わたしの魂が夢を見ているのでしょうか。どうかお願いします。僕にこの幻を解き明かしてください。」
 天使は答えた。「よく聞きなさい。あなたが恐れているものについて説明しよう。いと高き方はあなたに多くの奥義を示されたのだ。いと高き方はあなたがまっすぐに歩んでいるのを御覧になった。あなたが絶えず民のために悲しみ、シオンのために大いに嘆いたからである。
 幻の意味はこうである。少し前にあなたに現れた女のことであるが、あなたは、その女が泣いているのを見て、慰めようとした。しかし女の姿は今はもう見えず、建設中の都が現れた。彼女は息子の身に起こった不幸についてあなたに話したが、その解き明かしはこうである。すなわち、あなたが見たあの女はシオンであり、あなたが今眺めているのは都として建てられたシオンの姿である。女は三十年の間うまずめだったと、あなたに言ったが、これはシオンにまだ犠牲が献げられていなかった期間が三千年間あったということである。それから三年後にソロモンは都を建て、犠牲を献げた。うまずめが子を産んだというのは、この時のことである。女が息子を苦労して育てたと言ったのは、エルサレムに人が住んでいたときのことである。女は、息子が婚姻の寝室に入ったときに死んで、自分に災難が襲ったことを語ったが、これは、エルサレムの滅亡のことである。
 さあ、あなたは、シオンがその子のことをどんなに嘆いているかというたとえを見て、起こったことについて彼女を慰めようとしたのである。これがあなたに明らかにされねばならなかったことである。今、いと高き方は、あなたがシオンのために心から悲しみ、心の底から苦しんでいるのを御覧になって、あなたにシオンの輝かしい栄光と、端麗な美しさを示されたのである。家の建てられたことのない野原にとどまるようにと、わたしが言ったのはこのためである。
 わたしは、いと高き方があなたにこれを示そうとされていたことを知っていた。だからこそ、わたしはあなたに、建物の土台のない野原に来るよう言ったのである。いと高き方の都が示されようとしている所には、人間の手になる建物があってはならないからである。それゆえ恐れてはならない。心を騒がしてはならない。それよりも、建物の中に入って、あなたの目で見ることができるかぎり、その輝かしく壮大なる様を眺めなさい。その後で、あなたは耳で聞くことができるかぎりのことを聞きなさい。
 あなたは多くの人よりも幸いである。あなたはいと高き方のもとに呼ばれているが、これはごくわずかの人にしかないことである。明日の夜まで、ここにとどまっていなさい。そうすればいと高き方は、終わりの時に地上に住む人々になさろうとしていることを、夢の中の幻であなたに示されるであろう。」

 本書については常の順番を踏まず<編集者>に徹しているわけだが、読書ノートの筆を執る以上に長い時間を「エズラ記(ラテン語)」の本文を読まねばならぬ事実に、今更ながら気が付いている。むろん、それはいつもの作業に於いて本文を読み流していたり、とく把握せぬまま原稿執筆に掛かっていることを意味するのではない。駄弁を重ねる者は自ずと疑惑を招くことであるから、わたくしも先例に倣ってこれ以上この点については敢えて触れぬようにする。しかし、先日も申したように編集をするにあたって章節の表示を削除、新共同訳の本文とは必ずしも同じでない適宜改行──読みやすさの優先──を施したり、ということを行うには、いつも以上にちゃんと読まなくてはならないのだ、ということを、このたびの作業を通じて身に染みるようになったのである。
 実はその過程で副産物があり、これは実際にモレスキンのノートを用いて読書ノートを書いているときと変わらないけれど、編集作業中に気が付いたことは<コメント>機能を使って箇条書きに出来るのだ。なにを当たり前な……と、君よ、呆れるなかれ。わたくしはこれまでこの機能をパソコンでの執筆に積極的に採用することがなかったのだ。実際にペンを使って原稿を書きながらだと考える速度と筆の進み具合が比例しないことはままある。が、パソコンだとそれが可能だ。どうして可能になるかというと、Pagesにある<コメント>機能がアプリ起動させている限り可視化されているから。可視化されていれば、使ってみよう、という気にもなるものではありませんか?
 そこで今回の副産物の結果だが──
 ・エズ・ラ9:31−37でエズラが祈りのなかで述べる「律法の不滅」。これは旧約聖書/旧約聖書続編の歴史的記述、人々の行いのすべてを端的に、しかもこれ以上ないぐらい明確に現した箇所である。その真理は、律法を受ける側に咎あれば滅びる、しかし授けられた律法そのものは滅びることがない、というものだ。ちょっと冗談めかしていうと、<律法・イズ・ネヴァー・ダイ>。が、これ以上の真実、これ以外の事実はないのである。
 ・「なぜ泣いているのか。何に心を悩ませているのか。」(エズ・ラ9:40 エズラ)、「どうしたというのだ。なぜ取り乱しているのか。なぜ知性も心の思いも乱しているのか。」(エズラ10:31 天使)──この2つの、エズラと天使の台詞は読み手の側に痛く、深く突き刺さる。これらは、病める21世紀人に投げつけられる根本的疑念の言葉、時によってそれが癒やしとはならぬ言葉でもある。われらはこの<どうしてか?>という問いから自由になることはできないのかもしれない。況んや回答/解答をや。
 ・「女は三十年の間うまずめだったと、あなたに言ったが、これはシオンにまだ犠牲が献げられていなかった期間が三千年間あったということである。それから三年後にソロモンは都を建て、犠牲を献げた」(エズ・ラ10:45−46 天使)……「3,000年」の起点はいつだろう。いつからいつまでを指して「3,000年」というか。勿論、これが明確な時間幅を指しているのであれば、という前提でのお話である。「長い期間」の比喩として「3,000年」なる数字が用いることもあり得るし、本書に於いてキーワードのように繰り返される「30年」との対比であっても不自然ではないけれど、それをいうてしまうと考える楽しみが奪われるので、ここでは気に留めぬこととする。
 斯くして私見──これは、エルサレムがエブス人によって建てられてから第一神殿の建立までの期間をいうか。出エジプトを果たしたイスラエルがカナン入植(侵攻)してから神殿建立までの期間とするには、3,000年はあまりに長すぎる期間である。ゆえにわたくしは斯く考えるのだ。
 ──これが今回、編集中に心に浮かんだ由なしことを<コメント>機能を用いてメモした事柄である。今後もこんなことができるぐらいの時間的・精神的余裕を持ちたいと思う。その分、1日分の分量は常よりもずっと長くなるけれど、まぁ、駄弁をお楽しみいただければ幸甚、幸甚。



 他人目には殆ど手抜きに映る、と仄聞する「エズラ記(ラテン語)」読書に入って早7日。心のなかに抱えていたわだかまりも解けてなくなり、「後日、改稿してそれまで通りのノートと同じ体裁に仕立て直すから、別に誹謗中傷されたって痛くも痒くもないもん」とうそぶきながら、本ブログについて突き刺さる棘を人目に曝さないよう隠して、そこから滲む血のことはへらへら笑ってしらばっくれながら、ずいぶん久しぶりと感じるあたたかな今日、日曜日を会社で過ごしていた。
 仕事帰りに<最後の砦>と秘かに命名したカフェへこもって、明日以後の原稿を作成する傍ら、心を過ぎってゆく由なしことのうちで過ぎるたび引っ掛かってしばしそれについて思いを巡らせることがあるとすれば、それはこの時期にエッセイなり小説なりを書き溜めておくことも出来るのではないかなぁ、ということだ。初めのうちこそ、そんなこと割と簡単じゃね? なんて考えていたのだけれど、いざそのときを前に迎えてみると、たちまちそれがさもしい計画であり、また難事であるかを思い知っている。
 もうちょっと才気煥発しているときのわたくしなら、意外と難なくこのエッセイ群の執筆をこなしたかもしれない。ペンを執っていろいろ書いていたら興に乗ってしまって分量が質を伴いながら成長して悠希、やむなく複数回に分載することになっていたかもしれぬ。それはそれでじゅうぶんあり得たはずの未来である。しかし──現在のわたくしにこれまでのような分量と内容と質のエッセイを書くことはできぬ。というのも、非常に情けない話で恐縮だが、仕事に全力を注いでいるという自負と結果を残すと退勤後はほとほと疲れ果てて、あまりまとまったことが書けないようなのだ(現状はそうである、ということだ)。
 勿論、この「書けない」というのが一過性のものであることを、わたくし自身は良ぉく知っている。そうでないならば、どうしてこれまで足掛け6年強に渡って本ブログを継続させてこられたものか。ただ、現在はやや燃費が悪くてちょっとの遠出も尻込みするような状態なのである。ひとたびそれなりの分量と内容と質を伴うエッセイを「エズラ記(ラテン語)」ノート継続中に書いたなら、そのまま上昇気流に乗るような気もしているのだが……。そうしてその勢いを駆って「マナセの祈り」を前夜含めて2日分を悠然と終わらせ、年明けの新約聖書の読書に供え、一人恍惚とした表情を面に浮かべてワーグナーの音塊に心を沈めるのだ。ちょっとそれに飽きたら、ウッドハウスを読んだりしてね。ああ、書きたいなぁ。なにかスイッチが入れば、読者の困惑も不興も顧みることなく以前通りのエッセイ(と称す文章)を釣瓶落としの如くにweb上へ送りこむのだけれどな──。
 「エズラ記(ラテン語)」読書ノートブログに於けるエッセイ、果たしてこれが続いている間に昔日の栄光はよみがえるのだろうか?◆

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