第1825日目 〈エズラ記(ラテン語)第14章〈第七の幻〉:〈序文〉、〈啓示の記録について〉他withもう再開発などしてくれるな。〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第14章〈第七の幻〉です。

 エズ・ラ14:1−17〈序文〉
 三日目に、わたしは樫の木の下に座っていた。すると、見よ、灌木の茂みからわたしに向かって、「エズラ、エズラ」という声がした。わたしは、「主よ、ここにおります」と言って立ち上がった。
 主は言われた。「わたしの民がエジプトで奴隷だったとき、わたしは灌木の茂みの中で自らを啓示して、モーセに語った。そして彼を遣わして、わたしの民をエジプトから導き出した。そして彼をシナイ山の上に連れて行き、何日もの間、わたしのもとに引き止めておいた。そこで彼に多くの不思議な業を語り、時の秘密と時の終わりとを示した。そしてわたしは彼に命じた。『この言葉は公にし、また、この言葉は秘密にしておきなさい』と。
 今あなたに言う。わたしが示したしるしと、あなたが見た夢、また、あなたが聞いた解き明かしを心に秘めておきなさい。あなたは人々の中から挙げられて、わたしの子と、あなたのような人々と共に、時が終わるまで暮らす。世は既に若さを失い、時は老年期に近づいている。この世は十二の時期に分かれ、既に九つの時期と、更に第十の時期の半分が過ぎている。残っているのは、第十の時期の半分と、あと二つの時期だけである。
 だから今、あなたの家を整え、あなたの民を戒めなさい。卑しめられている人々を慰め、既に腐り切った生活を返上しなさい。はかない考えを追い払い、人間的な重荷を捨て、弱い本性を脱ぎ捨てなさい。そして、あなたにとって何とも煩わしい思いを打ち捨て、急いでこの時代から逃げ出しなさい。
 あなたは今、いろいろな災いが起こるのを見たが、これよりももっと悪いことが起こるだろう。この世が年老いて弱くなればなるほど、世に住む人々の上に悪が増し加わる。真理はますます遠ざかり、偽りが近づいている。あなたが幻で見た鷲が、既に急いでやって来つつあるからである。」

 エズ・ラ14:18−47〈啓示の記録について〉
 わたしは言った。「主よ、言うべきことは申し上げました。確かに、お命じになったとおり、わたしは行って今生きている民を戒めましょう。しかし、後に生まれて来る人々には、だれが警告するのでしょうか。この世は暗闇の中にあり、世に住む人々には光がありません。あなたの律法が焼かれたので、あなたが既になさったことも、どんな御業が始まるのかも知る人はいないからです。もしわたしが御好意にあずかっているのでしたら、わたしの中に聖なる霊をお送りください。初めから世に起こったことすべてと、あなたの律法に記されていたこととを書きましょう。そうすることによって、人々は道を見いだすことができ、生命を望む人は終わりの時に生きるのです。」
 主はわたしに言われた。「行って民を集め、四十日間はあなたを捜してはいけないと言いなさい。あなたは多くの書き板を用意して、サレア、ダブリア、セレミア、エタヌス、アシエルを連れて来なさい。この五人は速記のできる人々です。そしてここに来なさい。わたしは、あなたが書き始めたものが終わるまで、消えることのない知恵の火をあなたの心にともそう。出来上がったら、あるものは公にし、あるものは知恵ある者たちにひそかに渡しなさい。明日のこの時間に書き始めなさい。」
 わたしは、命じられたとおりに出かけて行き、民を皆集めて言った。「イスラエルよ、この言葉を聞きなさい。わたしたちの祖先は、初めエジプトに寄留していたが、そこから救い出された。彼らは命の律法を受けたが、それを守らず、後のあなたたちも、それに違反した。また、シオンの地にあなたたちの分け前として土地が与えられた。しかし、あなたたちも祖先も不正を行い、いと高き方が命じられた道を守らなかった。神は正しい裁判官なので、時が来ると、お与えになっていたものを、あなたたちから取り上げられた。
 あなたたちは今、ここにいる。そしてあなたたちの兄弟は、あなたたちの内にいる。もし、あなたたちが知性を制御し心を培うならば、あなたたちは生きている間、守られ、死後も、憐れみを受けるであろう。死後、生き返るときに裁きが来るからである。そのとき、正しい人々の名が明らかにされ、不敬虔な人々の行いも、あらわになるであろう。しかし、今はだれもわたしに近づいてはならない。また、四十日たつまで、わたしを捜してはならない。」
 そしてわたしは、命じられたとおり五人を連れて野原に出て行き、そこにとどまった。
 翌日になって、わたしを呼ぶ声がした。「エズラ、口を開き、わたしがあなたに飲ませるものを飲みなさい」と。わたしは口を開いた。すると、なみなみとつがれた杯が差し出された。それは水のようなものでいっぱいであったが、その色は火のようであった。わたしは、それを受け取って飲んだ。
 飲んだとき、心に悟りが与えられ、胸には知恵がみなぎった。わたしの霊は記憶を保っており、わたしの口は開き、とめどなく語り続けた。
 いと高き方は、五人の者に悟る力を与えられた。彼らは、それまで知らなかった文字で、次から次へと語られたことを書き取った。彼らは四十日の間、座りどおしだった。昼間は書き続け、夜に食事をした。わたしは昼間は語り、夜も黙ることはなかった。
 こうして四十日の間に、九十四巻の書物が書かれたのである。四十日が過ぎると、いと高き方は言われた。「あなたが初めに書いたものを公にして、ふさわしい者にもふさわしくない者にも読ませなさい。しかし、後の七十巻は保存しておいて、民の中で知恵ある者たちに渡すようにしなさい。これらの書物の中には、悟りの源と知恵の泉と知識の川があるからである。」
 わたしはそのとおり実行した。

 恥ずかしながらここに至るまで、わたくしは本書のエズラが前6世紀のエズラなのか、後1世紀のエズラなのか、自分でも判然とさせることができなかった。しかし、エズ・ラ14:13-14(「だから今、あなたの家を整え、あなたの民を戒めなさい。卑しめられている人々を慰め、既に腐り切った生活を返上しなさい。はかない考えを追い払い、人間的な重荷を捨て、弱い本性を脱ぎ捨てなさい。そして、あなたにとって何とも煩わしい思いを打ち捨て、急いでこの時代から逃げ出しなさい。」)を読んで、未だ朧ろ気なりと雖も、本書のエズラがやはり前6世紀に生きて神殿再建・エルサレム再建を促し、ユダヤ人の雑婚を禁じ、律法を朗読した、ペルシアから派遣されてきたあのエズラではあるまいか、と考えるようになった。
 それに専ら基づき、本節について私見を述べれば、本節は民族再興を促す言葉であり命令である。と同時に、領土を持たぬ民族共同体の導き手、率い手としてのエズラの召命である。「あなたにとって何とも煩わしい思いを打ち捨て、急いでこの時代から逃げ出しなさい。」(エズラ14:14)──なんともはや指導者の背負う重みを言外に語る言葉ではないか。
 天使はエズラに、これまで語ったことを記して後に伝えよ、という。エズラは天使にいわれたように五人の速記者を雇って、自分の言葉を記録させた。エズ・ラ14:42-43に拠れば、エズラは昼夜を問わず、黙することなく、ただ語り続けた。斯くして40日後に94巻の書物が書きあげられる。
 はじめに書かれたものは開示して民に読ませよ、しかしあとの70巻は秘して然るべき者へ渡して読ませよ。そう天使はいった。あとの70巻は民のなかの知恵ある者にのみ読ませるように。なんとなればそれは「悟りの源と知恵の泉と知識の川があるからである」(エズラ14:47)と。いったいここで語られる書物が、或いはその一部が、われらが読んできている「エズラ記(ラテン語)」なのであろうか。それとも、これはまったく別の書物の存在を示唆しているのだろうか。こんなことを考えると頭が悩ましくなるけれど、こうした作業はとっても楽しくて仕方がない。
 五人の速記者がエズラの言葉を口述筆記で書き留めてゆく場面に出る些細な一点に、わたくしの妄想は触発されて、刺激されて、際限なくその背後の物語を作ってゆく。ここで、エズラは夜も黙することなく、語り続けて、その間に速記者は食事をしていた。速記者たちは昼は書き夜は食事した、とエズ・ラ14:42-43にある。
 五人一斉に食事の時間を摂ったのか。ならば、その間、エズラは1人滔々と虚空の闇に向かって自分の見た幻を途切れることなく、蚕が糸を吐くように語り続けたのか。或いは、ここには書かれていないけれど、速記者たちは交代制で食事を摂り、誰彼かが必ず1人はエズラの話を書き取っていたのであろうか。となると、エズラは昼も夜も疲れを見せることなく、わずかの仮眠ぐらいは取っただろうがそれを別として、幻の記憶が薄れぬうちにひたすら口を動かし、脳をフル回転させ、見た幻と天使による幻の解き明かしの言葉をかれらに伝えることに専念していたのだろう。こんな小さな記述が、一歩異なればユーモアを孕んだ物語の誕生と成長のきっかけとなることもある。
 ──こんなことはさておくとしても、実は本章は、「エズラ記(ラテン語)」が黙示文学であることを否応なく思い出させる文言をも含んでいる。それが、「わたしが示したしるしと、あなたが見た夢、また、あなたが聞いた解き明かしを心に秘めておきなさい。あなたは人々の中から挙げられて、わたしの子と、あなたのような人々と共に、時が終わるまで暮らす。世は既に若さを失い、時は老年期に近づいている。この世は十二の時期に分かれ、既に九つの時期と、更に第十の時期の半分が過ぎている。残っているのは、第十の時期の半分と、あと二つの時期だけである。」(エズ・ラ14:8-12)である。ここは黙示文学としての「エズラ記(ラテン語)」の真骨頂とも思う箇所である。唐突な思い出しで恐縮だが、この一節、わたくしにはなにやらダンセイニ卿の豊饒にして冷徹な神話的物語群を想起させるにじゅうぶんであった。ダンセイニ卿描くところの物語はたしかに豊饒にして冷徹だが、時折ひょいと顔を覗かせるなんとも形容しがたいユーモアがある。そんなところも、「エズラ記(ラテン語)」第14章に共通した肌合いかな、と思うたりするのだ。
 なお、天使はエズ・ラ14:17にて「真理はますます遠ざかり、偽りが近づいている。あなたが幻で見た鷲が、既に急いでやって来つつある」と、エズラに警告する。この鷲とは〈第五の幻〉(エズ・ラ11:1-12:3 1/2)にて登場した鷲であり、むろんやがて来たるローマ帝国の台頭をいうている。●



 故郷が再び再開発の波に曝されようとしている。某大手自動車企業の本社施設が一斉に移転したことで売り地になった広大な土地を、旧財閥系不動産が引き受けて大規模マンションを建築中だ。それはほぼ即日完売で、完成・引き渡しの第一陣を待つ状態である由。
 それだけならまだしも、創立130年超の小学校が大規模マンションに近接した場所へ移り、その跡地はやはりマンションが建てられる、という。この小学校はわたくしのみでなく、兄や叔父・叔母までもが通った小学校である。地域の中心にあってコミュニティとしての機能を果たしてきた場所でもあった。
 その小学校が移転する、というのだ。当初は新しいマンションの方に分校を造って、分割する形で地域の教育に当たる、とのことだったのに、どうしてこのような事態になってしまったのか。耐震補強も行い、教室増、バリアフリー化も図ったばかりなのに、どうしてか。
 小学校が移転することは児童の通学に支障が生じ得る、ということだ。小中学校には校区というものが厳として存在する。この小学校の場合、校区の1/4弱が学校の横を走る道路の向こうにあり、その道路のこちら側、即ち小学校のある方に校区の3/4が存在する。道路を隔てるのは幅1メートル程度の歩道橋と、少し離れたところにある押しボタン式の横断歩道があるのみだ。正直、通勤する人たちの動線にも影響してくる。他に通学路となり得る道などはない。小学校がある側の校区にはマンションが幾つもあってそこから通う児童が殆どだ。つまり、結構な数になる、ということ。たぶん、数百人の数になるのではないか。それだけの児童が毎朝集団登校して、狭い通学路を安全に移動することなどできる、と考えているのだろうか。
 頼むから、もうこれ以上故郷を壊すのをやめてくれ。マンションが乱立すればいいというものではないのだ。街には街の個性や歴史、そうして秩序が存在する。土地に縁も所縁もない開発業者たちに<町>を破壊されて、先に住んでいた住民が消えてゆくのを見るのは身を切られるように辛く、憤りを覚えるものだ。いちど失われた景観や歴史はけっして元に戻らないことを知れ。◆

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