第1826日目 〈エズラ記(ラテン語)第15章〈付録の諸預言〉1/2:〈近づく災難〉、〈恐るべき幻〉他with「エズラ記(ラテン語)」の舞台裏その3〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第15章〈付録の諸預言〉1/2です。

 エズ・ラ15:1-27〈近づく災難〉
 主は言われる。「さあ、わたしがあなたの口に送り込む預言の言葉を、わたしの民の耳に語りなさい。そして彼らにそれを書き取らせなさい。その言葉は真実で、信頼できるからである。あなたに対する悪だくみを恐れてはならない。あなたに敵対する人々の不信仰に動揺してはならない。不信仰な人々は皆、不信仰のゆえに滅びるからである。」
 主は言われる。「見よ、わたしは地に災いを、剣と飢えと死と滅びとをもたらす。不正が全地を覆い、彼らの行いが行き着くところまで来てしまっているからである。」
 主は言われる。「それゆえ、彼らが行う不敬虔に対して、わたしはもう黙ってはいない。わたしは、彼らの不正なふるまいを忍耐しないだろう。見よ、潔白で正しい者の血が、わたしに向かって叫んでいる。正しい人々の魂が、絶え間なく叫び続けている。」
 主は言われる。「わたしは確かに不敬虔な者たちに報復しよう。そして彼らの中のすべての潔白な人々の血を、わたしのところに受け入れよう。見よ、わたしの民は家畜のように、屠殺場に引かれていく。わたしはもはや彼らが、エジプトの地に住むことに耐えられない。わたしは、力ある手、伸ばした腕をもって民を救い出そう。そして、かつてのように災難でエジプトを打ち、彼らの地をすべて滅ぼそう。エジプトは嘆き悲しむがよい。主が引き起こされる災難によってその大地の基が打ちたたかれるのだ。地を耕す農夫たちは嘆き悲しむがよい。彼らの種は尽き、木々は熱風と雹と恐るべき嵐によって荒らされるのだから。世と世に住む人々は不幸である。まもなく、彼らは剣で滅ぼされるのだから。民族は民族に対して、手に剣を取って戦いに立ち上がる。人々は自分たちの力を頼みにし、互いに相手を圧倒しようとして、王や位の高い指導者たちなど気にもとめない。人は、町に入ろうとしても、入ることはできない。町は人々の傲慢のために乱され、家はつぶされ、人々は恐れおののくからである。人は隣人を憐れまず、家に剣を持って押し入り、持ち物を奪うであろう。パンに飢え、苦しみが多いからである。」
 主は言われる。「見よ、わたしは地のすべての王たちを北から、南から、東から、東南東から呼び集め、彼らが自らに立ち帰って、与えられていたものを返すように命じる。わたしの選んだ人々に対して彼らが今日に至るまで行ってきたように、わたしも行い、彼らにそれを突き返す。」
 主なる神はこう言われる。「わたしの右手は、罪を行う者たちを赦さず、剣は、地上で罪なき人々の血を流した者たちを、見逃しはしない。火が主の怒りから出て、地の基と罪人たちとを、燃えるわらのように焼き尽くす。罪を犯し、わたしの戒めを守らない者は不幸である。」
 主は言われる。「わたしは彼らを赦さない。主に背いた者たちよ、立ち去れ。わたしの聖所を汚してはならない。」
 神は御自身に対して罪を犯す者を知っておられる。だからこそ、神は、彼らを死と殺害に渡されるのである。災いは既に地上に来ており、人々の中に居座るだろう。しかし神はお前たちを救われない。お前たちが神に対して罪を犯したからである。

 エズ・ラ15:28-45〈恐るべき幻〉
 見よ、恐るべき幻が東から現れる。アラビアの竜の民が多くの戦車に乗って襲って来る。彼らのどよめきは、その出陣の日から地に鳴り渡り、これを聞く者は皆、恐れおののく。カルモニア人は怒り狂って、森から出、大きな力をもって彼らを迎え撃ち、そのきばでアッシリアの一部を荒らす。その結果、竜は自分の本性を発揮して、更に勢力を増し加え、その大いなる力をもってカルモニア人に襲いかかる。すると彼らは混乱して、竜の力の前に沈黙し、くびすを返して敗走する。すると、アッシリアの地の伏兵が彼らを待ち伏せて、彼らのうちの一人を殺すであろう。すると軍勢は恐れおののき、以後彼らの国には動乱が絶えぬであろう。
 見よ、雲が東と北から南まで広がり、その様は非常に恐ろしく、怒りと嵐をはらんでいる。この雲は互いにぶつかり合い、すさまじい嵐を地上に降り注ぎ、剣によって流された血は、馬の腹、人の腿、らくだのひざにまで及ぶ。地上では大いなる恐れとおののきとがある。その怒りを見る者は震え上がり、おののきにとらえられる。
 その後、大きな嵐が、南と北から、またあるものは西からもやって来る。東からの風が強まり、怒りの中に巻き起こった雲を押さえつける。滅びをもたらそうとしていた嵐は、東風によって南と西に激しく追いやられる。
 そして、怒りをはらんだ大きくて強力な雲と嵐は、地とそこに住む人々を滅ぼそうとしてわき上がり、高く優れたあらゆるものに向かって、恐るべき嵐と、火と雹と飛ぶ剣と豪雨を降り注ぐ。そうして、あらゆる野と川はこのあふれる水で覆われる。町と城壁と山と丘、森の木と牧場の草と穀物は滅ぼされる。
 その雲と嵐はバビロンにまで移動を続け、バビロンをも滅ぼし尽くす。それらは、この町に押し寄せて取り囲み、嵐と怒りの限りをこの町に降り注ぐであろう。こうして、砂塵と煙は天にまで達し、周囲の人々は皆、この町のため嘆く。生き残った者たちは、町を滅ぼした者たちの奴隷となる。

 エズ・ラ15:46-63〈アジアに対して〉
 「アジアよ、お前はバビロンの美しさとその威厳ある輝きにあずかっている。お前は不幸だ、惨めな者よ。お前はバビロンのまねをして、お前の娘たちを売春婦のように着飾らせ、お前と姦淫しようといつも望んでいる愛人たちに気に入られ、褒めてもらおうとしている。お前は憎むべき者のすべての行いとふるまいをまねしたのである。」
 それゆえ神は言われる。「わたしはお前に災いを送ろう。やもめ暮らしと貧困、飢えと剣と疫病とを送ってお前の家を荒らし、破壊と死をもたらそう。お前の力ある栄光は、お前に送られた熱気が立ち上ると、花のようにしおれるだろう。お前は、打ちひしがれてみじめな女となり、深い傷を負って弱り、お前が頼りにしている者たち、愛人たちを受け入れることができないようになる。」
 主は言われる。「わたしが、これほどまでお前を憎むのは、お前が、わたしの選んだ人々をいつも殺害したからではないのか。お前は酔いしれて、手をたたいて喜び、彼らのしかばねをののしった。『お前の顔を美しく装うがよい』と。売春婦への報酬は、お前のふところにある。それゆえお前は報いを受ける。」
 主は言われる。「お前がわたしの選んだ者に対してするように、神もお前に対して行い、お前を災いに引き渡すであろう。お前の子供たちは、飢えで死に、お前は剣で滅びる。お前の町々は破壊され、お前に属する者たちも皆、戦場で剣に倒れる。山にいる者たちは飢えで滅び、パンに飢えて自分の肉を食べ、水を渇き求めて血を飲む。お前はさきの災難のため惨めになったが、更に災いを受ける。
 バビロンを滅ぼした者たちはそこから帰るとき、その道すがら、憎まれた町を打ち、お前の領土と栄華の一部を破壊する。お前は敷きわらのように踏み砕かれ、災いは、お前にとって火となるだろう。これらのものたちはみな、お前と町々とお前の領土と山を食い、お前のすべての森と実のなる木とを火で焼き尽くす。そして、お前の子供たちを捕らえて連れ去り、お前の富を剥奪し、お前の顔の輝きを台なしにする。」

  最初の方で申しあげたように、「エズラ記(ラテン語)」の最初と最後の2章は、後2-3世紀にキリスト教会によって追記・増補された箇所である由。著者をサラティエルことエズラとする<第四エズラ書>を挟みこむようにしてあるのは、その内容をキリスト教化するための作業であった。それゆえ、この第15章と第16章を第14章から続けて読んでくると、瞬間的な混乱を経験することになるやも知れぬ。ここで名の出るエジプトやアッシリア、バビロンが歴史に存在したかの国々であるのかは不明である。後1世紀のオリエント社会を支配していたローマ帝国の滅びを希求、預言するのであれば、いずれもなんらかに仮託した表記であることも考えられよう。
 が、ここではそれに拘泥するのを避けたい。それに関して様々考えるのは、本書のノートを執り直すときで良い、と考えるからだ。
 あらかじめ本書へ何度か目を通してからノートに取り組み、項目乃至は章に分けて該当章節の転記という節を汚す行為を自ら選択したわけだが、それであっても今日の第15章と明日の第16章は分かりづらい。難しく考えたり、穿った読み方を無意識にしようとしているためなのか。正直なところ、「サラティエルの黙示録」とも呼ばれる「エズラ記(ラテン語)」の最初と最後に置かれた各2章さえ存在しなければ、本書も実にすっきりとした読み方のできる<黙示文学>となっていただろう。読みやすく、わかりやすい<黙示文学>というのも変な気がするが、すくなくともわたくしにはキリスト教会の行った加筆・増補作業は余計な一手間のようにしか思えない。
 そこまでして、本書をキリスト教化しなくてはならなかった理由はなにか。盤石な基盤を未だ持たぬキリスト教会が自らの権威附けのために、旧約聖書としてまとめられていない様々な書物のなかから、教会の意向、思惑、思想にかなったものを選んでゆく過程で「サラティエルの黙示録」が発見され、キリスト教化するためにいま見るような加筆と増補が行われたのかもしれぬ。こうしたことは中世の日本でもあったことで、それは専ら特定の芸事に携わる家が自分たちの優位性、正統性、権威附けを行うたりして、いわゆる偽書が氾濫したのとよく似ている。
 この第1-2章と第15-16章は、一つにまとめた上で外典なり偽典なりとして存在してくれた方がよかった。既に決定された歴史に刃向かうような乱暴な物言いだが、偽りも汚れもない本音だ。そんな風に考えたのは、この4章を一緒に読んでみたら、これぞ<黙示文学>と思わせられたからであった。疑問を持たれる向きは、是非この4つの章をいちどに読んでみてほしい。結構強烈な読後感がもたらされると思う。まるで全編がクライマックス、息継ぐ暇もない、という形容が相応しい<幻の黙示文学>が立ち現れるはずだ。これを行った読者が、わたくしと同じような経験をしてくださることを祈る。
 最後にもう一つ。
 エズ・ラ15:2「それを書き取らせなさい。その言葉は真実で、信頼できるから」だが、これは勿論、書かれた言葉は舌から出た言葉よりも信頼が置かれ、真実をあまねく語るゆえに、この言葉を書き取らせるのである、という意味。物書きならば、聖書に現れた数々の言葉のうち、肝に銘じたい言葉の一つではないだろうか。



 ここ数日、当該章の感想はMac内のメモ・アプリを使って書いている。どうしてこのアプリで書こうという気になったのか、まったく記憶がないが、馴れてきたこともあるが結構快適である。個人的にはテキストエディットよりも使い勝手がよい。
 一つ一つのメモにテキストエディットやPagesのような題名を付けられないのが不便であると雖も、それは工夫次第でなんとでもなる。むしろ、最初の行の文章が反映される方が、便利かもしれない。いたずらに題名を付けることでそれがなにについて書かれたものであるか失念する恐れがある。仕事や箇条書き程度のメモ、ログであればそうした事故も避けられようが、創作に携わる者には考え抜いた題名が却って仇となるから……。ならば、題名を付けて保存する手間が最初から存在しないメモ・アプリの方が、失念などという事態は避けられて便利というものだろう。
 が、それは逆に考えればデメリットでもある。いまのところ、聖書読書ノートの感想でしか使っていないが、一つ一つのメモへ題名を付けられないという事実ゆえに本ブログに即していえばエッセイに、執筆という全体で考えれば小説に、これを使うのは両刃の剣となる。使いやすさは保存しづらさと背中合わせだ。創作に使うのであれば、冒頭の文章名で保存されるよりも、題名を付けてしまった方が便利なことが多いのである。いい方は悪いが、メモはメモなんだよな……。
 このメモ・アプリについてはもうちょっと試行錯誤してみないと、これを執筆のサポート・アプリとして依存するに足るかどうかの判断はできない。とはいえ、旧約聖書続編の読書ブログは間もなく終わりの日を迎える。本稿を含めてあと4日。でも、本書「エズラ記(ラテン語)」のように全章全節の転記という方法を採らなかったら、メモ・アプリを使うことがなかったであろうことも事実なのである。◆

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