第1827日目 〈エズラ記(ラテン語)第16章〈付録の諸預言〉2/2:〈エズラの哀歌〉、〈終末への主の僕の準備〉with嘘!? いますぐ本屋さんに行かなくちゃ!〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第16章〈付録の諸預言〉2/2です。

 エズ・ラ16:1-35〈エズラの哀歌〉
 バビロンとアジアよ、お前は不幸だ。エジプトとシリアよ、お前は不幸だ。お前たちは粗布をまとい、息子たちのため嘆き悲しむがよい。お前たちの苦しみが近づいたからである。
 お前たちには剣が突きつけられている。だれがそれを避けることができようか。
 お前たちに対して火が放たれた。だれがそれを消すことができようか。
 お前たちに災いが臨んでいる。だれがそれを払いのけることができようか。
 森の飢えた獅子を、だれが追い払うことができようか。
 燃えついた敷きわらを消すことができようか。
 力強い射手の放った矢を、跳ね返すことができようか。
 神である主が、災いを送られるのだ。だれがこれを跳ね返すことができようか。
 火は神の怒りから発せられるのだ。だれがこれを消すことができようか。
 稲妻がひらめく。だれが恐れずにいられようか。
 雷鳴がとどろく。だれがおびえずにいられようか。
 主が威嚇されるのだ。だれがその御前で打ち砕かれずに済むだろうか。
 大地とその基は震え、海は深みから波立ち、波も魚も主の御前で、主の御力の威光に騒ぎ立つ。弓を引く方の栄光は力強く、放たれる矢は鋭く、地の果てまで届かずにはおかない。
 見よ、災いが送られる。それは、地上に達せずに戻ることはない。火が放たれる。火は地の実りを焼き尽くすまで消えることはない。強力な射手によって放たれた矢が引き返すことがないように、地上に送られた災いも引き返すことはない。
 わたしはもうだめだ。もうだめだ。だれがその日にわたしを救ってくれるだろうか。嘆きが始まり、多くの人があえぎ苦しむ。飢えが始まり、多くの人が滅びる。戦いが始まり、権力者たちが恐れる。災いが始まり、人々はそれにおののく。災いが襲うとき、どうすればよいのか。
 見よ、飢えの打撃が襲って来る。その苦しみは鞭のようだ。それは戒めのための懲らしめ。それにもかかわらず、人々は不正を改めず、これらの懲らしめにもかかわらず、その懲らしめを永久に思い起こすことはない。
 見よ、地上では、しばらくの間穀物の値が下がり、平和が身近に迫ったと感じられるようになるだろう。しかし、そのときこそ、災いが地上に咲き乱れる。それは剣と飢えと大混乱である。飢えが、地上に住む多くの人々を滅ぼし、剣が、飢えを免れて生き残った人々を追い散らす。死体は糞土のごとく投げ捨てられ、人々を慰める者もいない。地は荒れるにまかされ、町々は崩壊していく。地を耕し、種を蒔く農夫は一人も残されないだろう。木々は実をつけたとしても、だれがそれを刈り取るだろうか。ぶどうは収穫をもたらしたとしても、だれがそれを搾るだろうか。どこも荒れほうだいになるであろう。
 人は人を見たいと望み、人の声をぜひ聞きたいと望む。しかし町には十人、田舎には二人しか残らず、しかも彼らは、森や岩の裂け目に身を隠しているであろう。それはちょうどオリーブ山のそれぞれの木に、三つか四つのオリーブの実が残っているようなものであり、取り入れの終わったぶどう畑に、ぶどうを懸命に探す人たちからも見落とされて、幾つかのぶどうの房が残っているようなものである。
 その日には、剣を持って家を探し回る者の手から生き残る者が三、四人いるだろう。地は荒れるにまかされ、畑は固くなり、道も小道もみな、茨を茂らせ、羊もそこを通らなくなる。おとめたちは結婚相手を失って嘆き、女たちは夫を亡くして嘆き、その娘たちは保護者を失って嘆く。婚約者たちは戦いで殺され、夫たちは飢えのために滅びるのである。

 エズ・ラ16:36-78〈終末への主の僕の準備〉
 主の僕たちよ、これに耳を傾け、よく理解せよ。見よ、これは主の言葉である。これを受け入れて、主が言われることを疑ってはならない。
 「見よ、災いが迫っており、遅れることはない。子を宿して九か月になる女が、出産の時が近づいて、その二、三時間前に陣痛を起こしてうめき、胎から赤子が出るのに一瞬たりとも遅れないように、災いも遅れることなく地上に出て来る。そして世は己を取り巻く痛みにうめく。
 わたしの民よ、わたしの言葉を聞くがよい。戦いに備えよ。地上にあっては寄留者のようになりなさい。すなわち、売る人は逃げ出す人のように、買う人はそれをすぐに失ってしまう人のように、商いをする人は利益を得ない人のように、家を建てる人はそこには住まない人のようになるがよい。種蒔く人は収穫を期待しないかのように、ぶどうの枝を刈り込む人は取り入れをしないかのように、結婚する人は子をもうけないかのように、結婚しない人はやもめであるかのように生きるがよい。
 労苦する人は理由もなく労苦することになる。彼らの実を他国の者が刈り取り、彼らの財産を奪い、家を壊し、彼らの子を捕らえて連れ去るだろう。捕囚と飢えのさなかで彼らが子供を産んでも、その子らは誘拐されて売買されるだけだからである。彼らが町々や家や財産やわが身を飾れば飾るほど、彼らの罪のためわたしの怒りは激しくなる。」
 主は言われる。売春婦が純潔で善良な婦人を激しく憤らせるように、正義は、不正が自分を飾るとき、激しく憤る。そして、地上のあらゆる罪を吟味する正義を擁護する方が来られるとき、正義は、面と向かって不正を告発する。だから不正も、その業もまねてはならない。なぜなら、見よ、間もなく不正が地から取り去られ、わたしたちの間で正義が支配するからである。罪人は、自分が罪を犯さなかったと言ってはならない。「わたしは神とその栄光の前に罪を犯しませんでした」と言う者の頭の上には炭火が燃えるからである。
 見よ、主は、人のすべての業と計画と思いと心とをご存じである。主が、「地は成れ」と言われると地が造られ、「天は成れ」と言われると天が造られた。主の言葉によって星の位置が定められた。主は星の数をご存じであり、深淵とその中の宝とをくまなく調べられ、海とその中のものを量っておられる。主は、御言葉によって水の領域に海を閉じ込められ、地を水の上につるされた。主は天を丸天井のように広げて、その基を水の上に置かれた。主は荒れ野に泉を置かれ、山の頂に湖を置いて、高い所から川を流れさせて、地を潤すようにされた。主は人を造って、体の真ん中に心を置き、それに霊と命と知性と全能の神の息吹を送り込まれた。主はすべてを造られ、隠れた所の隠れたものをくまなく調べられる。
 確かに主は、あなたたちの計画とあなたたちが心に思うことをすべて、ご存じである。罪を犯し罪を隠そうとする者は不幸である。確かに主は、彼らのすべての業をくまなくお調べになり、あなたたち皆を引き出されるからである。あなたたちの罪が人々の前に並べられるとき、あなたたちは、慌てふためくであろう。その日には不正の数々が告発者として立つであろう。
 主とその栄光の前に、あなたたちに何ができるというのか。どのように自分の罪を隠すことができるというのか。見よ、神は裁き手である。神を恐れるがよい。あなたたちは罪と縁を切り、永久に不正を行わないようにするがよい。そうすれば、神はあなたたちを導き、すべての苦しみから救い出してくださる。
 見よ、あなたたちの上に、多くの群衆の憤りが火となって燃え上がり、彼らはあなたたちの中のある人々を捕らえて、偶像に献げるために屠られたものの肉を食べさせるだろう。そして、これに同意した者たちは、彼らに嘲笑、愚ろうされ、踏みつけられる。至るところで、また、近隣の町々で、神を畏れる人々に対して、多くの反対が起こる。反対者たちは気でも狂ったように、主をまだ敬う人々から強奪して彼らを打ちのめし、一人も容赦しないだろう。その人々を打ちのめして、財産を強奪し、その人々を家から追い払うであろう。
 そのとき、金が火によって試されるように、わたしの選んだ人々が試みられて、正しい者と証明されるであろう。主は言われる。「わたしが選んだ人たちよ、聞け。見よ、苦しみの日々が近づいている。しかし、わたしはあなたたちをその苦しみから救おう。恐れてはならない。疑ってはならない。神があなたたちの指導者であられるからである。」神である主は言われる。「あなたたちはわたしの戒めと掟とを守ったのであるから、罪があなたたちに重くのしかかり、不正があなたたちをしのぐようなことがあってはならない。
 自分の罪に圧倒され、自分の不正に覆われてしまう者は不幸である。それはちょうど畑がやぶにふさがれ、小道が茨に覆われて、人が通れなくなるようなものである。その畑は囲いを巡らして火が放たれ、火で焼き尽くされるだけである。」

 終末とはいま在るこの世が崩壊することだ。社会の秩序も道徳も、あらゆる善もあらゆる悪も、人間の営みもなにもかも、根こそぎ足許を浚われてすべてが滅びることを、<終末>という。というのも、斯様な黙示的世界を経たあとに訪れる、神による永遠統治の時代が幕を開けるから──。その日の訪れに向けて、人よ、準備せよ。神の意志に従って、その計画の実行される日に備えて、生きよ。
 それが本書最終章の要旨である。わたくしは昨日、「サラティエルの黙示録」なる書物がキリスト教化されるにあたって、前後各2章が増補されて現在のような「エズラ記(ラテン語)」になった旨述べた。また、増補された章をまとめて1つの書物の如くに読むと、これぞ黙示文学とでもいいたいような、圧し潰されるような読後感に襲われる、とも。その最強のクライマックス、圧倒的大コーダを築くのが、今日読む第16章であった。本書「前夜」に於いても後半になるに従って切迫した調子が募ってゆくと書いたのも、専ら本章を意識に置いての話である。
 なんだか暗い気持ちのまま「エズラ記(ラテン語)」は終わるが、このあとには、暗闇のなかにわずかに灯った希望の光が見える。それが明日と明後日に読む「マナセの祈り」だ。マナセとは南王国ユダの王で、主の目に正しいと映ることをせず、ユダとエルサレムを惑わした王として「列王記」や「歴代誌」に名を残す。マナセ王については明日の「マナセの祈り・前夜」でちゃんと述べることにして、いまはここで筆を擱く。
 こちらの準備不足が祟って節を汚すような行いに及んだ「エズラ記(ラテン語)」であったが、どうにかこうにか今日、いま読者諸兄にお読みいただいたように終わりの章節へまで辿り着くことができた。ひとえに皆様の声なき支持があったからこそのゴールである。サンキー・サイ。



 いろいろ書こうと思うていることはあったけれど、いま別件でインターネットしていたら、「嘘!?」と叫んでしまうような記事に遭遇。
 この原稿をさっさと予約投稿して、本屋に走ろう。某コンビニのCMに使われた森高千里風に♪本屋さんに行かなくちゃ! わたくしはいま発売中の『Rolling Stones』誌日本語版を手に入れなくてはならぬ。TSUTAYAで流れているジバニャンのアナウンスを真似すれば、『Rolling Stones』誌をゲットするんだニャン!
 そうしてそのあと、黒ビールをしこたま飲みながら<わが神>なる<王>の言葉に触れるのだ。◆

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