第1828日目 〈「マナセの祈り」前夜〉 [マナセの祈り]

 個人の罪の告白と赦しの嘆願を扱った本篇「マナセの祈り」は、旧約聖書続編を〆括るに相応しいといえます。正典の「詩編」に収められていても、なんら違和感も遜色もない程に。
 外題役のマナセは、まず間違いなくあのマナセ、南王国ユダの王であったマナセでありましょう。「マナセの祈り」のなかにはアッシリアの捕虜になってバビロンへ連行された、というような描写はないので、完全に同定することはできませんけれど、しかし、この祈りの詩篇がかの王のものである、とする典拠は「歴代誌・下」第33章にありました。
 マナセの事績については、「列王記」にも載りますが、本篇の拠って立つ文言は「歴代誌・下」にのみ記されておるのです。それを要約すると、このようになります。曰く、──
 マナセ王は父ヒゼキヤが徹底排除した異教神への信仰を復活させた。聖なる高台を再建し、異教の祭壇を神殿内に築き、占いや魔術を行い、エルサレムとユダの民を惑わせた。それゆえに主の怒りを招き、アッシリア軍が侵攻してきた際は捕虜となりバビロンへ連行。かの地で先祖の神に立ち帰り、赦しを乞い、祈りをささげた。それは主に聞き入れられ、かれは自分の国へ戻ることができた。マナセは自分が行ったあらゆる背信の事物を取り除き、先祖の神への信仰を復活させた。が、民は主の目に正しいと映ることを行なおうとしなかった。
──と。
 「マナセの祈り」の背景には上述のような「歴代誌」の記述がありました。殊、本篇が拠るのは代下33:12-13であります。アッシリア軍によって捕らえられ、バビロンで虜囚生活を送るなかで様々思いを巡らし、己の行為を検証・反省する機会もあったのでしょう。そうして先祖が畏れ、敬い、信じ、祈り、献げ物と感謝をささげた神なる主について、自らを省みて諫め、また戒めることもあったでありましょう。それゆえにマナセは「深くへりくだり、祈り求めた」(代下33:12-13)のです。
 そのマナセがささげた祈りは、王の事績などと共に『イスラエルの列王の記録』に載る、と代下33:18は伝える。また、かれの祈りが主に聞き入れられたことは、『ホザイの言葉』に載る、と代下33:19は伝えます。
 とはいえ、勿論、ここで読む本篇がこのままの形で『イスラエルの列王の記録』に収められて今日にまで伝わってきたわけではありません。いまわれらが読もうとしている「マナセの祈り」は、70人訳ギリシア語聖書の写本の一系統(5世紀中頃成立とされる<アレキサンドリア写本>と7世紀の<チューリヒ写本>)にある「詩編」の補遺に収められる由。マルティン・ルターはラテン語訳の聖書で「マナセの祈り」を知り、おそらくは希望の光に照らされた救いの詩篇であることに注目、後年自身が旧約聖書の外典(続編)を編んでまとめるに際して、本篇をその最後へ置くに相応しいものと考えたのでありましょう。
 そうすると、今度は本篇の作者は誰か、いつ頃にどこで書かれたのか、という疑問が浮上するのですが、これらに関しては不明である、としか言い様がありません。作者の出自はほぼユダヤ人に間違いないだろうけれど、アレキサンドリアなどで暮らす離散(ディアスポラ)ユダヤ人なのか、在パレスティナ/エルサレムのユダヤ人なのかがわからない。本篇が従来の定説のようにギリシア語で書かれたのか、或いは一部で想定されるようなヘブライ語やアラム語で書かれたのかどうかも、わからない。また、本篇の執筆された時期について、秦剛平は前2世紀から後1世紀とする研究者たちの説を紹介し、その下限はローマ帝国とユダヤの間に勃発した第1次ユダヤ戦争が始まった66年に求められよう、と言い添えます(『旧約聖書続編講義』P261 リトン)。
 読み進むにつれて胸が重くなり、気持ちが暗く塞いでいった「エズラ記(ラテン語)」のあとに、「マナセの祈り」があることは読者にとって幸い事であります。そこには、どれだけ小さく弱々しくても希望が灯っているからであります。これを、年末ということでワーグナーの楽劇に喩えるならば、《ニーベルングの指輪》序夜〈ラインの黄金〉の幕切れ──雷神ドンナーが槌を振りおろした瞬間、黒に黒を重ねたような闇が裂けて光に満ちた世界が開け、虹の橋の向こうに最高神ヴォータンらの居城ヴァルハラが荘厳な姿を現したときの、身震いするかのような感銘にも似ていましょうか。或いは、『SPACE BATTLE SHIP ヤマト』で木村拓哉演じる古代進がガミラス上陸作戦の前に行った演説や、『インディペンデンス・デイ』でビル・プルマン演じるホイットモア大統領が人類史上最大規模の対エイリアン戦前に行った演説に接したときの感銘。
 それでは明日、単独章より成る「マナセの祈り」を読みましょう。それは即ち、旧約聖書続編の読書の終わりであります。◆

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