第1829日目 〈マナセの祈りwithこの期に及んで『フランケンシュタイン』まで刊行されちゃったよ。〉 [マナセの祈り]

 マナセの祈りです。

 マナ:1-15〈マナセの祈り〉
 主よ、わたしは罪人です。あなたに背くことばかり行い、むかしからあった警告を軽んじていました。あなたの目に正しいと映ることなどなにもせず、あなたの降す怒りになぞ構わず、自分の思うがままに振る舞い、行動して、いまはご覧の有り様です。主よ、わたしは罪人です。罪を犯したから、いま、ここでこうしているのです。
 いと高き主よ、あなたは情けに篤く、寛大で慈愛にあふれ、憐れみ深く、そうして自分の民へ降された災いについて悔やまれる。おお、あなたには正しい者の神なのに、罪人であるわたしに回心の恵みを与えてくれました。
 「わたしの犯した罪は海辺の砂より多く、/とがは増しました。主よ、増し加わりました。/わたしは天の高みを仰ぎ見るには/ふさわしくありません。/多くの悪事を行ったからです。」(マナ:9)
 なのに、あなたは罪人であるわたしに回心の恵みを与えてくれました。主よ、わたしは自分の犯した罪を認めます。わたしはあなたの前にへりくだり、心の膝をかがめて、あなたの憐れみを求めます。
 「お赦しください。主よ、お赦しください。/とがもろともにわたしを滅ぼさないでください。/いつまでも怒り続けて/わたしに災いを下すことなく、/罪に定めて、地の奥底に捨てないでください。/主よ、あなたは悔い改める者の神だからです。/あなたは善き御心を示してくださいます。/ふさわしくないわたしを、深い慈しみをもって/救ってくださるからです。」(マナ:13-14)
 わたしは罪を悔い、心を改め、あなたの前に立ちます。わたしはこれから、絶えることなくあなたを讃えます。天のすべての軍勢があなたを讃美し、栄光は久遠にあなただけのものであるからです。
 アーメン。

 これまでのような感想は敢えて控えたい。こうして「マナセの祈り」を読んでみると、その内容に突き刺さるものを感じたからだ。
 自分が過去に犯した罪を(なにかのきっかけがあって)深く反省し、行いを顧みて悔い、これからは正しい行いをすることに努めますからどうかわたしを救ってください、罪にまみれた心を軽くして後ろめたい気持ちを感じることなく太陽の下を歩き人と接することができるようにしてください、と祈るところは、洋の東西、時の古今、人種と言葉と宗教と思想の別なく不変の行いである。
 わたくしも罪を犯して生きている人間だ。行いを省みて悔い改め、回心して生きている者だ。法に問われて求刑、それに服したような意味での<罪>では勿論ないけれど、心のなかにいまでも大きくその出来事は巣喰っていて、わたしはそれから目を反らして、見捨てたかれらを忘れ、平然とこれからの人生を生きてゆける自信はない。そうしてそんなことを胸を張って行える勇気もない。また、してはならんのだ、とも思うている。
 「マナセの祈り」は祈りの詩篇であると同時に罪の告白と赦しを嘆願する詩篇である。わたくしは旧約聖書続編のなかに斯様な性質の作物があることを喜ぶ。



 古典の新訳が出ることはうれしい。今年はディケンズの『大いなる遺産』が岩波文庫から、同じ作者の『二都物語』とO・ヘンリーの短編集が新潮文庫からそれぞれ出版された。年の瀬も近い頃になって今度はその新潮文庫からメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』が刊行された。訳者は芹澤恵。
 これまで『フランケンシュタイン』の原作は片手の指では足りぬ程の数が出版された。わたくしが高校生の頃に古本屋で買って、以来いまも架蔵するのはいちばん普及したと思しき創元推理文庫の森下弓子のものである。これと比較してどれだけ読みやすくなっているか、など、まだ読めていないので比較することなどできるものではないが、平井呈一にいわせるとシェリーの原文はとても冷徹であるとのことなので、どれだけ原文を思わせられるか、それでいて日本語としてきちんと機能しているか、といったところがわたくしにとって判断の基準となろう。
 ただ、問題はコッパードの短編集とまだ読み終わっていないウッドハウスの短編集、『怪奇文学大山脈』第3巻、そうして今回の『フランケンシュタイン』。この4冊(実質3冊ですか)をどうやってわずか2日の年末年始の休みに読めと?◆

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