第1843日目 〈新約聖書・前夜〉 [始まりのあいさつ]

 かつてアレクサンドロス大王とその軍隊の勇猛なる活躍によって強大を誇ったギリシアはかれの逝去後、4つの王朝に分裂して、そのうちのプトレマイオス朝エジプトとセレコウス朝シリアが相次いでユダヤを支配した。プトレマイオス朝の下でユダヤは概ね平穏な時代を過ごした。が、統治がセレコウス朝に代わり、殊アンティオコス4世エピファネスの時代になると、ユダヤは生き辛くなった。やがて王の邪知暴虐に耐えかねて、ユダヤのマカバイ家の男たちが立って蜂起し、セレコウス朝に戦いを挑んだ。これをマカバイ戦争といい、これに勝利したユダヤはバビロン捕囚後初めての独立王朝を築いた。ハスモン朝の成立である。
 しかし約1世紀の後、ハスモン朝は滅びた。前63年のことである。時の大祭司職を巡ってアリストブロス2世とヒルカノス2世がそれぞれローマに訴え、これを調停するためにやって来た将軍ポンペイウスによってその年、ユダヤはローマに併合されてその属州の一つとなったのだ。斯様にして、ユダヤ人によるユダヤ人の、ユダヤ人のための自治独立国家は歴史の表舞台から消えた。次にこうした国家が歴史に登場するまでには、2千年近い時間が必要だった。即ちイスラエル国の建国である。が、これはそこに紙幅を割くものではない。
 ローマ! いまや地中海世界とオリエント世界の覇権を握るのは、ギリシアに代わって台頭してきたローマであった。
 ちょうどこの頃、ローマは「内乱の一世紀」と呼ばれる時代を、迎えていた。ユリウス・カエサルが元老院の差し金によって暗殺され(前44年3月15日)、ローマは混乱していた。カエサルの跡を襲ってローマに支配権を確立することを願い、覇を競った者に、後にエジプト女王クレオパトラと婚姻してローマへ反旗を翻すこととなるアントニウスと、カエサルの妹の子(孫?)でかれの養子、相続人に指定されていたオクタウィアヌスがいる。この2人に大神祇官レピドゥスを加えて前43年11月に結ばれたのが<第二次三頭政治>だ。
 ローマはオクタウィアヌスによって、それまでの共和政から亡きカエサルが実現を夢見た帝政へ、その国体をゆるやかに、しかし着実に移行してゆく。かれオクタウィアヌスは前27年1月13日、長く続いた国家の非常事態の終息を、有事ゆえ自身に与えられていた数々の権能を元老院並びにローマ市民に返還する旨と併せて宣言。この3日後、かれは元老院からこれまでの業績を讃えて「アウグストゥス」なる称号を贈られている。アウグストゥスとは「尊厳ある者」という意味だ。一見共和政ローマが復活するかに思われたアウグストゥスのこの宣言、実はこれが事実上の帝政ローマの始まりであったことを、後世の歴史家の一致した見解である。
 アウグストゥスは紀元14年まで存命であった。その間、帝位はかれの娘婿ティベリウスに移り、ローマ帝国の版図は東西南北へ拡大してゆく。その拡大された版図のなかに、シリア・パレスティナ、即ちエルサレムを擁すユダヤもあった。
 ローマ帝国は属州政策を採っていたので、当然ユダヤにも地方総督を送りこんでかれにその地を管轄させることになるのだが、それ以前にユダヤの王としてローマから認められてそこを支配したのはユダヤ人(一説では南部イドマヤ人)であるヘロデ大王だった。
 ユダヤ王としてのヘロデの在位は前37-4年。もっとも突然ユダヤ王になったのではない。前47年にガリラヤ地方の総督、前40年にユダヤ王、前37年にはパレスティナ王を名乗った由。ローマ帝国への阿諛追従、民に重税を課すなどによって、ヘロデの評判はけっして良いものとはいえなかった。「マタイによる福音書」に幼児虐殺の記述があって、これが事実であったか定かでないが、火のない所に煙は立たない、という。噂や挿話が生まれる土壌はじゅうぶんにあった、と考えるべきだろう。
 かれは狂王ルードヴィヒ2世に較べても劣らぬ建築マニアであった。ヘロデが取り憑かれたように築いた建築物の遺構は、地中海沿岸のカイゼリヤや死海周辺のマケルス、ヘロディウムなど、いまも各地に見られる。が、本稿に於いていちばん注目すべきは、やはり前20年もしくは前19年とされるエルサレム神殿の再建だろう。これはソロモン王の第1神殿より規模が大きく、また壮麗であった、という。ヘロデはこの神殿を取り巻くようにして、自身の宮殿をも築いたというが、むしろ拡張された神殿区域に居城もあった、とするのが自然であろうか。余談となるが、ヘロデ時代の神殿の西の壁の一部が、いまもエルサレムに現存している。これがユダヤ教の聖地<嘆きの壁>である。ユダヤ人が壁に額を付けて手を置く写真を見た方もあろう。あれが<嘆きの壁>だ。
 このヘロデ王が逝去する直前、イエスがガリラヤ地方のナザレという小村で生まれた(前4年)。誕生が12月25日であったか、根拠となるものはない。西暦354年、ローマの司教リベリウスによってイエス生誕が12月25日であるとされるまで、この人物の誕生日には諸説あり、1月6日とも5月20日ともいわれていた云々。
 ヘロデ大王亡きあと、その息子たちが父の王国を分割統治した。その1人がヘロデ・アンティバスで、ガリラヤ地方とヨルダン川東岸のペレア地方を治めた。「マタイ」第14章、「マルコ」第6章に載る洗礼者ヨハネの斬首は、このヘロデ・アンティバスが義理の娘の求めに応じて行った。その場所は前述のマケルス。イエス在世中の出来事である。──本挿話はカラヴァッジョやグスターヴ・モローの絵画、オスカー・ワイルドの戯曲、リヒャルト・シュトラウスの楽劇によって夙に知られている。その名は「サロメ」である。
 息子たちの分割統治のあと、ユダヤを擁すシリア総督としてローマ帝国より派遣、前26年に着任したのがポンティウス・ピラトだった。イエス処刑にかかわった人物である。
 ──これが、イエスが生まれた時代、生きた時代の、ちょっと粗暴な素描である。
 本稿を閉じる前にもう1つだけ、あらかじめ〈前夜〉で書いておいた方がよかろう、と思う事柄がある。イエスの時代、ユダヤ教内にあった党派についてだ。
 この頃、ユダヤ教内には2つの大きな党派、勢力があった。ファリサイ派とサドカイ派である。詳しく述べ始めると泥濘に足を捕られるだけだから簡単に済ますとするが、いうなればファリサイ派は聖書主義、律法主義であり、民衆のなかにあってかれらに支持された。サドカイ派は神殿主義であり、上流階層や祭司らに支持された。
 ──ファリサイ派と同じように律法に精通して一派を築いたものに、いわゆる<律法学者>たちの存在がある。話が前後することになるけれど、新約聖書ではファリサイ派と並んで律法学者も悪の親玉、尊大の親玉のように扱われており、イエスの論敵となった。──
 ファリサイ派は旧約聖書を尊び、そこに書かれたことの今日的解釈や生活への適用を模索した。一方でサドカイ派は旧約聖書のうち<モーセ五書>、即ち律法の権威を重んじてその面では保守的だったが、律法に固執することはなく、ローマと積極的関わりを持って共同体の現状維持を計るなど、むしろ現実的でさえあった。が、そのサドカイ派は神殿主義なるがゆえに紀元70年、第一次ユダヤ戦争によって神殿がローマ軍に破壊されると拠って立つところを失い凋落した。ファリサイ派は元より神殿と距離を置く立場にあったから自ずと存続し、第一次ユダヤ戦争後はユダヤ教の指導的立場になって主流を占めていった。
 ファリサイ派とサドカイ派が登場した背景には、ヘレニズムの存在がある。この圧倒的な伝播力、影響力を持ったヘレニズムがユダヤ人社会に浸透して定着してゆくのは、もはや避けられないことだった。そのなかで自分たちがどのようにしてこの変化に対応しつつ聖書の教えを守ってゆくべきか。それを考え、実践したのがファリサイ派である。サドカイ派は押し寄せるヘレニズムの波を柔軟に受け入れてギリシア、後にはローマへパラサイトして生き延びることに腐心、現実的保守的立場を貫いたのだった。
 律法学者のところでも述べたけれど、イエスにとってファリサイ派は論敵、言い換えれば目の上のタンコブ的存在であり、会えば対立することも避けられぬ間柄であった。ちなみにイエスの教えを地中海世界へ忍耐を以て広めていったパウロは、当初このファリサイ派に属していたというから面白い。
 なお、当初の予定ではこのあと、シナゴーグ(会堂)について短く述べる予定であったが、熟慮の末、これは福音書の次に読む「使徒言行録」か書簡の〈前夜〉、もしくは福音書を読んでいて然るべき日があればその際に、改めて触れることとしたい。また、明日から「マタイによる福音書」を読み始めるのか、或いはその前に、共観福音書についての極めて短いエッセイを挟むのか、今日この時点ではまだ決めかねていることも、ここで告白しておきたい。
 いずれにせよ、明日明後日のうちに新約聖書を読み始めることだけはお約束できる。可能であれば今年のクリスマスか、来年3月から4月にかけての復活祭(イースター)の時期に読み終わることを目標に据え、本艦は抜錨して長い航海に赴く。◆

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