第1846日目 〈マタイによる福音書第1章:〈イエス・キリストの系図〉、〈イエス・キリストの誕生〉withようやくウッドハウスを読了したよ!〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第1章です。

 マタ1:1-17〈イエス・キリストの系図〉
 ノアがいて、セムがいた。数代を経てテラが生まれ、アブラハムが生まれた。アブラハムからイサクへ、ヤコブ(イスラエル)へ、血は継がれた。ヤコブの息子で最も知られるのはエジプトの宰相にもなったヨセフだが、系図はこの人物を重要視しない。ヤコブ/イスラエルの子らで取り挙げるべきはユダである。
 ユダはタマルを妻としてペレツを設けた。ペレツから5代あとのサルモンは、ヨシュアに率いられたイスラエルの民がいよいよカナン侵攻に備え始めたとき、エリコの町へ潜入した2人の斥候を匿って主に愛でられた遊女ラハブを妻とした。サルモンとラハブの間にボアズが生まれた。ボアズはモアブ出身のルツを妻に迎えてエッサイを設けた。ルツとボアズのことは「ルツ記」に詳しい。このエッサイはダビデ王の父となった。
 統一王国イスラエルの2代目の王ダビデはバト・シェバとの間にソロモンを設けた。ダビデとソロモンの地は分裂した南王国ユダの王たちがつないでゆく。かれらについては「列王記」と「歴代誌」を繙け。
 王国が分裂して、ダビデ王家の者もバビロン捕囚の目に遭った。が、ここで述べるのはそれ以前に捕囚となってバビロンへ連行されたヨヤキン、またの名をエコンヤという最後から2番目の王がつないだ血の流れである。かれの孫ゼルバベルはペルシアによる捕囚解放を承けて第一次帰還団の指導者として、廃都エルサレムへ帰った。かれから9代あとの子孫にヤコブという者がいる。その子がマリアの夫、イエスの父となるヨセフであった。ヨセフはナザレの町の大工。マリアの胎から生まれたイエスは、メシア(キリスト)と称される。

 マタ1:18-25〈イエス・キリストの誕生〉
 メシア(キリスト)と称されるイエス誕生の次第はこうである、──
 ヨセフとマリアはガリラヤ地方ナザレの人。かれらは婚約していた。しかし、ヨセフの精を受けずしてマリアは妊娠した。ヨセフはこれを知ると、表沙汰にならぬうちに彼女を縁切りしようとした。
 その晩、ヨセフは夢を見た。主の使いの天使が現れる夢だった。そのなかで、天使はヨセフにこういった。曰く、──
 マリアの胎の子は聖霊の働きによって宿ったのであるから、あなたはなにも恐れることなく彼女を妻となさい。どうしてこのようなことが起きたのか、といえば、それはかつて主が或る預言者を通して語ったことを実現するためです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名は、インマヌエルと呼ばれる。」(マタ1:23,イザ7:14)インマヌエルの意味は、神はわれらと一緒にいる。ヨセフよ、あなたは生まれてくる子にイエスと名を付けなさい。かれは自分の民を罪から救う者です。
──と。
 目覚めたヨセフは天使の告げた通りマリアを妻に迎えた。そうして彼女の出産まで夫婦の営みを持たなかった。やがて男児が生まれて、イエスと名附けられた。
──メシア(キリスト)と呼ばれるイエス誕生の次第は、このようなものであった。

 新約聖書の各巻には旧約聖書からの引用が多く行われております。本章に於いては「イザヤ書」からのメシア預言が該当します。幸い、読書のテキストとして使っている新共同訳聖書には、旧約聖書からの引用一覧がありますので、これを参考としながら、必要な範囲でそれを知らせてゆくつもりです。
 系図については実に面白く、楽しく筆を進められました。が、本稿で触れなかったマタ1:17,アブラハムからダビデまで14人、ダビデからバビロン捕囚即ちヨヤキン(エコンヤ)まで14人、バビロン移住即ちヨヤキンの子からイエスまで14人という記述には、ちょっと疑問がございまして。何度数えても1人足りないのです。ありふれた怪談話の類と思うなかれ。
 まず第1ブロック、アブラハムからダビデまで。ここには14人の名があり、マタ1:17の記述通りである。次に第2ブロック、ソロモンからヨヤキンまで。ここには14人の名があり、マタ1:17の記述通りである。終に第3ブロック、シャルティエルからイエスまで。ここには13人の名があり、マタ1:17の記述とは相違する。
 個々のブロックで重複して名が記される者もいるため、数え方を変えてみても、必ずどこかのブロックで13人になってしまう。わたくしの頭が悪いせいかもしれません。どなたか数えてみて、すべてのブロックが14人ずつになったら教えてください。当然、各人1回のカウントですよ?



 今朝、通勤の車内にてようやく(本当にようやくだ!)、ウッドハウスの文庫を読了。『ジーヴズの事件簿 大胆不敵の巻』(文春文庫)、260ページ程度の短編集にどうして1ヶ月強も費やしたのか。
 理由は自ずとしれている、この間、殆どページを開いたことがなかったからだ。仮に1話1日と計算しても費やすのは6日、章立てされている話が2話あることを加味しても、1週間程度でじゅうぶん読み終えられたはずなのになぁ……。
 ──ちかごろ読書欲の低下を著しく感じている。以前は空いた時間がわずかでもあれば、本を読まずば気が済まぬぐらいだったのに、このあまりに悲劇的な変貌はどうか。口惜しいというべきか、悲しいというべきか。正直表現に苦しむところである。
 積み上げられた小説も、果たしてすべて読了するまでには何年かかることやら。せめてS.キングとドストエフスキー、クリスティと太宰治の未読分はすべて消化してから、わが身への審判が下されてほしいものである。◆

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