第1848日目 〈マタイによる福音書:〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉、〈イエス、洗礼を受ける〉withこのリュックは何キロあるんだ?〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第3章です。

 マタ3:1-12〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉
 それはこうして始まった。
 洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野に現れて、悔い改めよ天の国が近附いている、といった。かつて預言者イザヤが語った言葉が実現したのである(イザ40:3)。
 ヨハネは粗衣粗食であった。そんなヨハネの評判を聞きつけて、人々がかれの許へ上ってきた。ユダヤ全土とエルサレムから、ヨルダン川沿いの岸辺の町や村から。かれらは来て、ヨルダン川に入ってヨハネから洗礼を受けた。
 そのうち、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々も来た。洗礼を受けに来た、と、かれらを前に、ヨハネがいった。
 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めるにふさわしい実を結べ。」(マタ3:7-8)続けて、こうもいった、「わたしは悔い改めのために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」(マタ3:11)わたしはその方の履き物を脱がせる資格さえない。その方は聖霊と火で以てあなたたちに洗礼を授けることだろう。

 マタ3:13-17〈イエス、洗礼を受ける〉
 ガリラヤからヨルダン川のヨハネの許へ、イエスがやって来た。受洗のためである。願うかれをヨハネは思い留まらせようとした。わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのです、どうしてわたしのところへ来たのですか。
 イエスが答えて曰く、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタ3:15)
 ──ヨハネはイエスの頼みを聞き入れ、ヨルダン川に入ってかれを洗礼した。洗礼が済んでイエスが岸に上がると、かれの上で天が開けた。神の霊が鳩の如く自分の上に降ってくるのを、イエスは見た。そのとき、天から声が聞こえてきた。それに曰く、──
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」(マタ3:17)

 洗礼者ヨハネとは何者か。かれの宣べ伝えるメッセージはなんであったか。本来の箇所に到達したら、改めて述べることもあろうが、「マルコによる福音書」第1章第4節に拠れば、ヨハネは民に、「罪の許しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」という。ヨハネは、来たる終末の預言者としても捉えられる。これまで預言書などでさんざっぱら触れられてきた<神の裁き>の訪れを前に民を改悛させる──それが洗礼者ヨハネの役割であった。
 かれは祭司の家系に生まれた人で、しかもイエスの血縁者であった、という(「ルカによる福音書」第1章第5節〜第2章第21節)。ヨハネの母エリザベトとイエスの母マリアが親類であったことを、ルカ1:36は伝える。
 またその粗衣粗食(マタ3:4)ゆえにヨハネは旧約聖書の預言者エリヤを想起させる由。

 本日の旧約聖書はマタ3:3とイザ40:3。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」(マタ3:3)
 これの典拠は、
 「呼びかける声がある。/主のために、荒れ野に道を整え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(イザ40:3)



 重いリュックを背負って会社へ行く。もともと腰が悪いのに、どうしてこうも重い荷物を日々<運搬>せねばならぬのか。自問自答するまでもなく、本ブログの原稿を書くため必要な書籍が詰めこんであるからだ。MacBookAirとバッテリー2種が加われば、この重さも、うむ、道理だ。
 いったいこのL.L.beanのリュック、何キロあるのだろう。日頃倩考えながら、忘れっぽさ(呵々)と恐ろしさが先に立ってなかなか実行できずにいたのだが、遂に昨日、勇気を奮って重さを量ってみた。帰宅して手を洗うのもそこそこに、洗面所の体重計を引っ張り出して、1回深呼吸したあとリュックを乗せてみた。
 ──予想は概ね的中した。体重計はアナログゆえに針が1.5キロばかりプラスの方向へずれている。それを考慮して算出された計量結果は、約7.5キロ!
 肩に食いこむストラップ、降ろしたあとの肉が張った感じも痛みも疲労も、すべてに於いて納得というか、当然の帰結というか、いずれにしても呆れ返ってしまう事実。
 が、このリュックの重さからわたくしは、しばらくの間は解放されないのだ。そう、本ブログが──この書物を読み終える日までは。それまではこの重いリュックを背負わねばならぬ。……会社のロッカーに入らなくなったり、一緒に持ち歩くお弁当バッグゆえにロッカーを2つ占拠する日の訪れは、案外と近いかもしれぬ。◆

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