第1852日目 〈マタイによる福音書第6章/「山上の説教」2/3:〈施しをするときは〉、〈思い悩むな〉他with滅多にしないことをした理由はなに?〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第6章、「山上の説教」2/3です。

 マタ6:1-4〈施しをするときは〉
 人目につかぬところで、あなたは善行を積みなさい。人に対して施しをするとき、あなたは右の手がすることを左の手に教えてはならぬ。あなたの施しを世人に知られないようにである。斯様に、隠れたところで行われた施しに対して、天の父は報いてくれるから。

 マタ6:5-15〈祈るときは〉
 人前や人目につく場所で祈ってはならぬ。それは偽善者の行うことだ。あなたは世人の目のない場所で、静かに、簡潔に祈りなさい。
 くどくどと言葉を並べ立てて祈るのは、異邦人のすることだ。言葉数が多ければ祈りは届くだろう、願いはかなうだろう、とするのは異邦人の勝手な思いこみである。
 あなた方の場合、祈り願う前から天の父はあなた方のことを知っているのだから、異邦人のようにすることはない。
 「あなたが祈るとき、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタ6:6)

 マタ6:16-18〈断食をするときには〉
 いままさに自分は断食をしているのだ、ということを自ら世人に知らしめるような態度を取るな。あなたが理由あって断食していることを知るのは、ただ天の父のみである。世人には、断食していることがすぐにはわからぬよう、頭に油を付け、顔を洗って臨みなさい。

 マタ6:19-21〈天に富を積め〉
 あなたの富を地に積むな。天にこそそれを積め。
 天の富のあるところに、あなたの心もある。

 マタ6:22-23〈体のともし火は目〉
 あなたの目は、あなたの体の灯火である。あなたの目が澄んでいるならば、あなたの体は明るい。あなたの目が濁っているならば、あなたの体は暗い。あなたの体のなかの光が消えれば、あなたの体はどれ程暗くなることだろう。

 マタ6:24〈神と富〉
 何人と雖も複数の主人に仕えることはできない。それは、あなたは神と富、そのどちらにも同時に仕えることはできない、ということである。

 マタ6:25-34〈思い悩むな〉
 だから、わたしはいっておく。自分の命のことで、自分の体のことで、自分の衣食住のことで、思い悩むな。それらを切に望むのは異邦人である。天の父はこれらのものがあなた方に必要である、とわかっている。あなた自身がそれらについて思い悩むことはない。上ノ国と神の義を求めるならば、それらは皆与えられるのだ。
 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタ6:34)

 昨日に較べると表現の穏やかな印象を受けるのは気のせいであろうか。どこを取り挙げても、静かに、読み手の心に浸透してゆく言葉が並ぶ。正直なところ、本章程読んで余計な解説、註釈めいたものを必要としない章は、珍しいのではないか、と思う。
 信仰あるならば、全力で自分の行いを世間にアピールするようなことはしない。そんなことをする者を新約聖書では「異邦人」、「偽善者」と呼び、今日ならばさしずめ「愚か者」、「エエカッコシイ」、そんな風に呼ばれる連衆である。
 わたくしはこう書いていて、たしか折口信夫が弟子の誰だかに語ったことをどうしても思い出す。地方の寺に来て、談たまたま僧侶の徳に及んだ際である。「本当に徳のある坊さんというのは地方の、草深い田舎の寺にこそいるもので、世間に広く知られたりした人じゃあないんだ」と折口はいった。本章での〈施し〉、〈祈り〉について同様の真意を感じるのは、可笑しな話だろうか。
 そうして、真打ちとして登場するマタ6:25-34〈思い悩むな〉。ここは昨日の〈敵を愛しなさい〉、明日の〈求めなさい〉と並んで、「山上の説教」のヤマ場というてよい。──まだ来ぬ明日のことを思い悩んで自分の心を煩わせるな。明日のことは明日になったら思い悩めばいいではないか。今日の憂いは今日だけでじゅうぶんなのだから。
 ──良い教えではないか。これこそが<福音>である。良い教えとは、宗教や人種、国境や政体、言語や風習を超えて心に届けられ、浸透してゆくものなのだ。



 いちど自分にとっての名盤、決定盤ができるとその後は同曲異演へ滅多に手を出さぬわたくしだけれど、今日のディスク・ユニオンでの買い物は、その「滅多にない」行動をしたのです。
 ブラームスの弦楽四重奏曲全集、ラサール弦楽四重奏団の演奏(DG)。これまでテルデックから出ていたボロディンSQの演奏でじゅうぶんに満足していたのですが、今日、ラサールSQ盤を購入した理由は、本当のことをいえば、自分でもよくわかりません。
 「魔がさした」というのではない。LPで聴いたときの感情がよみがえったのかもしれない。実に良い気分であったのは覚えている。こわばったものがほぐされてゆくような気持ちがしたことも覚えている。──が、実際のところ、即座に購入を決定させたものがなんであったかは、やはり定かでないのである。
 これからじっくりと耳を傾けて、そのときわたくしの背中を押したものがなんであったかについて、わかることができれば良い、と思う。◆

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