第1853日目 〈マタイによる福音書第7章/「山上の説教」3/3:〈求めなさい〉、〈狭い門〉、〈あなたたちのことは知らない〉他with<笑い>のあとに<恐怖>を読む。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第7章、「山上の説教」3/3です。

 マタ7:1-6〈人を裁くな〉
 あなた自身が他人に裁かれたりしないようにするには、どうしたらいいか。なによりもあなた自身が人を裁かないようにすることだ。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタ7:2)
 あなたは自分の兄弟の目のなかのおが屑に気附くことができる。なのにどうして自身の目のなかにある丸太に気が付かないのか。その丸太に気附かぬ者が、どうして兄弟の目のなかのおが屑を取り除けよう。
 偽善者よ、なによりもまず自分の目のなかの丸太を取り除け。
 ──また、神聖なものを犬に与えるな。豚に真珠を投げたりするな。奴らはそれを踏みにじり、あなたへ立ち向かってくるだろう。

 マタ7:7-12〈求めなさい〉
 求めよ、さらば与えられん。
 探せ、さらば見つかるらん。
 叩け、さらば開かれん。
 何人であれ求める者は受ける。探す者は見附ける。門を叩く者には開かれる。天の父は求め、探し、叩く者に良い贈り物を与えるだろう。
 ──
 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタ7:12)

 マタ7:13-14〈狭い門〉
 汝、狭き門より入れ。それは命へ通じる道。
 滅びへ至る門は広い。多くの人がそこをくぐる。
 が、命へ通じる門は狭く、その道も細い。これまでにどれだけの人が狭き門をくぐって、命へ至ったことだろう。

 マタ7:15-20〈実によって木を知る〉
 偽りの預言者を警戒せよ。かれらこそ羊の皮をかぶった狼だ。その本性はかれらの実によってこそ知られる。
 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(マタ7:17-19)
 真の預言者と偽りの預言者は、その実によって区別されるのだ。

 マタ7:21-23〈あなたたちのことは知らない〉
 わたしイエスに向かって主の名を唱えれば、だれでも自動的に天の国へ入れるわけではない。そこへ入ることができるのは、天の父たる主の心を行う者のみである。
 主による裁きの日が来て、大勢の人々がわたしのところへ押し寄せてくるだろう。かれらはいう、お前によってわれらを救ってくれ、と。
 が、その日そのとき、わたしはきっぱりとこういう、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(マタ7:23)と。

 マタ7:24-29〈家と土台〉
 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタ7:24)
 「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚か者に似ている。」(マタ7:26)
 ──人々は、ここまでのイエスの話を聞いて、非常に驚いていた。というのも、かれが律法学者のように話すのではなく、権威ある者として自分たちに教えたからである。

 〈求めなさい〉はやはり何度読んでも良い箇所だ。求めて探し、門戸を叩く者には良き贈り物がある。キリスト者にあらざる者も、これは信じてよい言葉だろう。希望にあふれた言葉は読んで心地が良いものである。
 かと思えば、〈わたしは知らない〉という慄然とさせられる言葉がある。かりそめの、うわべだけの信仰を持つと述べ立てる不埒者に、天の国へ入る資格なぞあるものか。裁きの日、自分を頼ってくる者あらば断固として拒否しよう。お前達のことはまったく知らない、とっとと去れ。──いや、厳しい、厳しい。が、来る者は拒まず、千客万来では、やってゆけない。心ある者だけがそこへ入ってゆくことができる。そうでなくて果たしてなんの教えか、信仰か。イエスの激しく厳しい言葉に納得できぬ者よ、離れ去るがよい。
 警戒すべきは偽りの預言者である、という。われらの知る預言者達の時代にも偽りの預言者があって、主により召命された真の預言者達の活動を邪魔したりした。真なる者と偽りの者。その区別はかれらの<実>にこそある。
 エリヤや3大預言者、12小預言者は真実なるがゆえに良い木であり良い実を結ぶ。良い実、それは即ち<福音>でありメシア預言であり、神の国による永遠統治の訪れの予告である。一方で、主の名を騙る偽りの預言者は悪い木であり、悪い実を結ぶ。即ち人心を誑かした廉で主の怒りを蒙るのだ……こんな人物、どこかにいなかったっけ?
 フランシスコ会訳ではマタ7:7-12〈求めなさい〉、最後の節は〈黄金律〉として独立する。曰く、「だから、何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである」(フランシスコ会訳)と。──疑われるかもしれないけれど、わたくしは常よりこのような行いのできる人物になりたい、と思い願うているのである。



 ウッドハウスの文庫を読み終わったことを先日、ここでお伝えしました。本来ならばそのまま続刊『ドローンズ・クラブの英傑伝』に移るはずなのですが、読み終わったタイミングがあまり良ろしくなかった。帰りの電車のなかで読む本がなくなってしまったのだ。聖書と聖書人名辞典はリュックのなかにあるけれど、往復の通勤電車のなかで読むような本ではないことはたしかだろう。
 そこでわたくしは考えた。帰り道にはTSUTAYAがある。その2階にはTSUTAYAのエコブックのコーナーがある。まぁ、平たくいえばTSUTAYA版ブックオフである。そこに寄ってなにか短めなものを見繕って帰りの電車のなかで読み、読了したらさっさと売り払おう。そんな風に思うての寄り道。それが良くなかった──。
 望みの本が見附からなかったわけではない。結論からすれば、見附かった。否、棚にその本があるのを発見してしまったのだ。それが他の作家ならば、特にどうということもないのだけれど、そのとき見出して手にして一目散にレジへ運んだのは、スティーヴン・キングの短編集だったのだ。それも、自分が高校生の頃に読み耽ってキングの物語る力に感嘆した短編数『骸骨乗組員』、サンケイ文庫、初版! おお、神よ!!!!
 それを駆って、帰りの電車に乗った。「死神」を読んだ、「カインの末裔」を読んだ。帰宅してからは夜明け近くまで「ウェディング・ギグ」を読んだ、「握手しない男」を読んだ。そうして、「霧」を読んだ。
 ハヤカワ文庫『闇の展覧会』、サンケイ文庫死して扶桑社ミステリ文庫にて真相再刊された版まで含めれば、「霧」は何度目の再読だろう。そうして実はいまもリュックのなかに入っている。行きの電車のなかで読み、、昼休みに同じタイミングで休憩に入っている同僚なくば読み、本ブログ原稿を書く前に(ウォーミングアップを兼ねて)読み、帰りの電車のなかで読む。
 よくもまぁ、飽きずに何度も何度も読み返せるものだ、と、われながら可笑しくなってしまうが、でも仕方ない。キング印の刻印された作品はわたくしにとって教科書であり、至福の読書体験を約束してくれるものであるからだ。これぞ<福音>!! サンキー・サイ。
 この興奮と幸福、しばらくは収まりそうにない。ゆえにウッドハウスに戻ることはいまの段階では困難な行為だ。いや、無謀というか、背信行為に等しいかも。大袈裟というな、ボクハホンキダ。うぃす!◆

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