第1857日目 〈マタイによる福音書第11章2/2:〈洗礼者ヨハネとイエス〉、〈悔い改めない町を叱る〉withSunday Night Café Gypsy〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第11章2/2です。

 マタ11:2-9〈洗礼者ヨハネとイエス〉
 かつて自分が洗礼したイエスの、数々の奇跡に満ちた活動は、牢獄のなかの洗礼者ヨハネの耳にも届いた。いまかれは、ヘロデ大王の子でガリラヤ・ペレア地方の領主ヘロデ・アンティバスの砦の1つ、マケルスに捕らえられている。ヨハネは自分の弟子を介してイエスに、来たるべき方はあなたでしょうか、それとも他の者なのでしょうか、と訊ねた。
 自分の許へヨハネの質問を携えてきたかれの弟子に、イエスはこういった、──
 「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタ11:4-6)
 それを聞いた弟子たちは獄中の師、洗礼者ヨハネの許へ帰って行った。
 イエスはかれらを見送ったあと、群衆に向かって洗礼者ヨハネについて語った。
 (ヨハネがヨルダン川の一帯で活動していた頃、)あなた方は荒れ野に行ってなにを見ていたのか。風にそよぐ葦か。否。預言者か。然り。あなた方が見たのは預言者以上の者である。預言書にあって、わたしの前に人を遣わしてわたしの準備をさせる、とはこの人のことである。およそ女の胎から生まれて洗礼者ヨハネ以上の者はなかった。あなた方が認めようと努めればわかることだが、かれこそやがて来るといわれていた預言者エリヤなのだ。耳ある者はこれを聞け。ヨハネが来て食べも飲みもしないと、人々はかれを指して、あいつは悪霊に取り憑かれているのだ、と噂する。が、「知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(マタ11:19)

 マタ11:20-24〈悔い改めない町を叱る〉
 これまでに、イエスは数々の奇跡をそれぞれの町で行ってきた。が、いずれも悔い改める様子がない。イエスは痺れを切らして、町々を叱り始めた。
 コラジンとベトサイダよ、お前たちは不幸だ。お前たちのところでわたしが為してきた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町は粗布をまとって灰をかぶり、とうの昔に悔い改めているに違いない。コラジンとベトサイダよ、はっきりいっておく。裁きの日にはお前たちよりもティルスやシドンの方がずっと軽い罰で済む。
 カファルナウムよ、まさかお前は自分が天にあげられるなどと思うているのか。驕るな。お前は陰府に堕とされる。お前のところでわたしが為してきた奇跡が、もしソドムで行われていたならば、神の怒りで焼き滅ぼされることもなかっただろう。カファルナウムよ、はっきりいっておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりもずっと軽い罰で済むのだ、ということを。

 マタ11:25-30〈わたしのもとに来なさい〉
 父よ、わたしはあなたを讃えます、とイエスはいった。これらのことを賢者でも知者でもなく幼子のわたしへ示してくれたことを感謝します。すべてのことは父からわたしに任せられています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者の他に父を知る者はありません。
 ──人の子らよ、天の父は厳しく、その軛を負い、学ぶのは、とても重くて苦しいことです。わたしの許へ、天の父の子であるわたしの許へ来なさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い。あなた方はやすらぎを得られよう。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタ11:28)

 どうやら獄中のヨハネは、わたくしどもの想像と異なって或る程度までの自由が与えられていたようだ。すくなくとも、外界との接触は許されている様子だ。自分の弟子たち、イエスの活動やその弟子の動向などについての情報も、比較的容易に入手できたと思しい。
 かれはマタ4:12にて逮捕されたけれど、真に世を脅かすような思想を持ち、それに基づいた教えを宣べ広めていたならば、ここに見られるような弟子との接触やイエスへの質問などできない、もっと厳重かつ拘束された環境に置かれるのではないか。
 そも、ヘロデ・アンティバスがどうしてヨハネにこのような外部との接触を許していたのか、意図が不明である。それがヘロデの目を欺いて秘密裏に行われたのであればともかく、そうでないならば、案外とヘロデはヨハネに対してなんらかの恐怖を感じていたのかもしれない。それがどのような類の恐怖であったか、それは探りかねるが、下手に扱って事態を悪化させるよりは、或る程度の制限内で自由を許した方が得策かもしれぬ──そんな風に考えたのかもしれないな、とさえ思う。
 しかし、ソドムよりも重い罰を受ける町があるのだ。奇跡を経験しながら悔い改めぬは、成る程、ソドムに比してより重罪を科されるも宜なるかな、というところか。……嗚呼!

 本日の旧約聖書は、マタ11:10とマラ3:1。
 「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』」(マタ11:10)
 これの典拠は、
 「見よ、わたしは使者を送る。/彼はわが前に道を備える。/あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。/あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、/と万軍の主は言われる。」(マラ3:1)



 日曜日の出勤は困るのだ。帰りにカフェへ寄って原稿を書こうとしても、どこもかしこも満席で、それは夜遅い時間まで変わることがない。
 今日(昨日ですか)も小1時間うろうろして、けっきょく会社の真下のカフェに戻り、モレスキンへの第一稿を仕上げてから辞去した。週末ゆえに閉店時間が1時間早いのだ。いつもならばこのあと、MBAでの推敲・清書・予約投稿となるのだが、他のカフェの空席を探すことは諦めて、さっさと帰宅した──。
 かえすがえすも伊勢佐木モールにあったスターバックスと南蛮屋カフェが閉店したことが悔やまれる。いずれもわたくしにとって<巣>だった。そうして唯一無二の<書斎>であった。殊に後者はややもすれば閉店以後までいることができた可能性が濃厚に残る。
 こんな風にして、日曜日の夜にカフェ・ジプシーをしていると、なんとまぁ、因果なこと(本ブログである)を始めてしまったのか、とつくづく思う。溜め息マックスですよ。
 でも、いまでこそカフェに入り浸る日々が続いているが、本ブログ完結後は反動で一気に足が遠ざかるのかな……それも淋しいけれど考えてみれば、足が遠のくなんてこと、まずあり得ないのだ。だってわたくしはこのあと、小説書きに戻るんだもん。
 斯くして再び(三度?)カフェはわが書斎として(店側ははた迷惑だろうが)機能することになるのである。呵々。◆

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