第1859日目 〈マタイによる福音書第13章:〈「種を蒔く人」のたとえ〉、〈たとえを用いて話す理由〉他withみくらさんさんか、身内について考える。〉 [マタイによる福音書]
マタイによる福音書第13章です。
マタ13:1-9〈「種を蒔く人」のたとえ〉
ガリラヤ湖畔に坐るイエスを慕って群衆が来た。かれは舟に乗って腰をおろすと、たとえを用いて群衆に語った、──
種蒔き人が種を蒔いている。或る種は道端へ落ちて鳥に食べられた。或る種は石ころだらけの土地に落ち、土が浅いためすぐに芽を出したがすぐに枯れた。或る種は茨の間に落ちて、茨に塞がれて伸びなかった。
が、他の種は良い土地に落ちて実を結び、何十倍にも、百倍にもなった。耳ある者はこれを聞け。
マタ13:10-17〈たとえを用いて話す理由〉
弟子たちは、イエスが群衆に対してはたとえを用いて話すことにふしぎを感じた弟子たちは、イエスにそのことについて訊ねた。イエスはその理由について、あなた方には許されていてもかれらには許されていないことがあるからだ、と答えた。それは天の国の秘密を悟ることである。そうして、──
「持っている人は更に与えられて、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マタ13:12)……かれらは見ても聞いても理解できないのだ。これは預言者イザヤを通して既に語られていたことの実現である(イザ6:9-10)。
しかしあなた方は幸いである。目は見、耳は聞いているからだ。「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなた方が見ているものを見たがったが、見ることができず、あなた方が聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」(マタ13:17)
マタ13:18-23〈「種を蒔く人」のたとえの説明〉
種を蒔く人のたとえはこのような意味である。
御国の言葉を聞いて悟らねば、心のなかに蒔かれたものは悪人に奪い盗られる。これが道端に落ちた種だ。
御国の言葉を聞いてすぐ受け入れるが、根がないためすぐにつまずく。これが石ころだらけの土地に落ちた種だ。
御国の言葉は聞くが、世の思い煩い、富の誘惑に覆い塞がれて実が出ない。これが茨の間に落ちた実だ。
御言葉を聞いて悟り、よく考えて行動し、豊かな実りを得る人。これが良い土地へ落ちた実だ。
マタ13:24-30〈「毒麦」のたとえ〉
或る人が畑に麦の種を蒔いた。そのあと敵がやって来て、同じ畑に毒麦の種を蒔いた。種は生長して芽が出て実った。人々はそこでようやく毒麦が畑に紛れこんでいることを知り、主人にその旨伝えた。主人は、刈り入れのときまでそのままにしておけ、といった。刈り入れではまず毒麦を集めて焼くための束とし、そうでない麦は刈って集めて倉に蓄えておくよう、刈り入れするものにいうておこう。
マタ13:31-33〈「からし種」と「パン種」のたとえ〉
天の国はからし種に似ている。畑に蒔いたときはどんな種よりも小さかったのに、育てばどの野菜よりも大きくなる。
天の国はパン種に似ている。3サドンの粉に混ぜて焼けば、全体が膨らんで大きくなる。
マタ13:34-35〈たとえを用いて語る〉
──イエスはこれらのことを皆、たとえを用いて群衆に語った。たとえを用いずして語ることはなかった。これは預言者を通して語られたことの実現である。
マタ13:36-43〈「毒麦」のたとえの説明〉
群衆を残して家に入ったイエスのそばに弟子たちが来て、毒麦のたとえはどのような意味ですか、と訊ねた。イエスは答えた、──
良い麦の種を蒔くのは人の子、畑は世界、良い種は御国の子らである。毒麦の種を蒔くのは悪魔、刈り入れとは世の終わり、刈り入れ人は天使たちである。
「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタ13:41-43)
マタ13:44-50〈「天の国」のたとえ〉
天の国は、畑に隠された宝に似ている。良質の真珠を探し歩く商人に似ている。また、湖に仕掛けられた投網に似ている。網が魚でいっぱいになれば人々はそれを引きあげ、良い魚と傷んだ魚に分別する。
世の終わりにはこうなる。天使たちが来て正しい人のなかに潜む悪い者を選り分けて、悪い者はまとめて燃え盛る炉のなかに放りこまれる。奴らはそこで泣きわめき、歯ぎしりするだろう。
マタ13:51-52〈天の国のことを学んだ学者〉
イエスは弟子たちに問うた。あなた他はこれらのことがわかったか。弟子たちは、わかりました、と返事した。
天の国のことを学んだ者は皆、新しい教えと古い教えを自分の倉から出すのである。
マタ13:53-58〈ナザレで受け入れられない〉
──これらのことを語り終えたイエスは、故郷ナザレに帰って、そこの会堂で説教した。
すると人々は驚いて、いった。かれは何者か。いつの間にこんな知恵と奇跡を行う力を身に付けたのだ。かれは大工の息子ではなかったか。母はマリア、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、姉妹はわれらのなかに住んでいる。かれはどこでこのような力を備えたのか。こう口々にいって、人々はイエスにつまずいた。
イエスは慨嘆し、呟いた。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」(マタ13:57)
このように町の人々が不信仰であったため、イエスはナザレで殆ど奇跡を行わなかった。
真実、事実をありのままに語るよりは、喩えを用いて説明する方が相手の心に届くこともある。その方が、かれらが理解できることもある。人を教える立場を経験した者ならば、ほぼ例外なく首肯できる話ではないだろうか。が、これは一方で、教える者がどれだけ相手のことを把握しているか、を試されることでもある。誤ると疑念を持たれたり、不信を買うことにもつながりかねない。両刃の剣だ。イエスは、これまでに読んできたところを含めても、実に豊かな語りの才能を持った教師である、といえよう。
引用もしたマタ13:17だが、これを家族や家庭という社会を構成する最小単位にまで引き下げて顧みると、悲しみに肺腑を捕まれ、落涙を禁じ得ず、申し訳ない気持ちに囚われてしまう。自分が見ているもの、聞いているものを見聞きしたかった人がいるのに、その人たちはいま自分が見ているもの、聞いているものを見聞きすることはできないのだ。──わたくしは自分の家庭を持ち、家族を作り、親に孫の顔を見せ、抱かせられないことを罪に思う。親不孝だと思う。ロクデナシだと思う。磔刑に処さるゝべきは、腹を槍で突かれて血を流すべきは、額に<罪人>の焼き印を押されすべきは、ひょっとすると自分なのではなかったか。そんな風に思い詰めもするのだ。
未来は閉ざされた。いまや先に続く道は一つしかない。そこに家族を得ること、それによってやすらぎがもたらされること、血脈を次の時代、新しい世界へ残すこと。そうした希望がそこにあるとは、もはや期待できないのである。
本日の旧約聖書はマタ13:14-15とイザ6:9-14、マタ13:35と詩78:2。
「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。 /
この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。/こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。/わたしは彼らをいやさない。 」(マタ13:14-15)
これの典拠は、
「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。/この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。/目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」(イザ6:9-10)
「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」(マタ13:35)
これの典拠は、
「わたしは口を開いて箴言を/いにしえからの言い伝えを告げよう 」(詩78:2)
いちばんの理解者であり、いちばんの不理解者は身内にある、というこの矛盾。が、古来よりこれを覆す事実も存在しない。なんたることか……!◆
マタ13:1-9〈「種を蒔く人」のたとえ〉
ガリラヤ湖畔に坐るイエスを慕って群衆が来た。かれは舟に乗って腰をおろすと、たとえを用いて群衆に語った、──
種蒔き人が種を蒔いている。或る種は道端へ落ちて鳥に食べられた。或る種は石ころだらけの土地に落ち、土が浅いためすぐに芽を出したがすぐに枯れた。或る種は茨の間に落ちて、茨に塞がれて伸びなかった。
が、他の種は良い土地に落ちて実を結び、何十倍にも、百倍にもなった。耳ある者はこれを聞け。
マタ13:10-17〈たとえを用いて話す理由〉
弟子たちは、イエスが群衆に対してはたとえを用いて話すことにふしぎを感じた弟子たちは、イエスにそのことについて訊ねた。イエスはその理由について、あなた方には許されていてもかれらには許されていないことがあるからだ、と答えた。それは天の国の秘密を悟ることである。そうして、──
「持っている人は更に与えられて、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マタ13:12)……かれらは見ても聞いても理解できないのだ。これは預言者イザヤを通して既に語られていたことの実現である(イザ6:9-10)。
しかしあなた方は幸いである。目は見、耳は聞いているからだ。「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなた方が見ているものを見たがったが、見ることができず、あなた方が聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」(マタ13:17)
マタ13:18-23〈「種を蒔く人」のたとえの説明〉
種を蒔く人のたとえはこのような意味である。
御国の言葉を聞いて悟らねば、心のなかに蒔かれたものは悪人に奪い盗られる。これが道端に落ちた種だ。
御国の言葉を聞いてすぐ受け入れるが、根がないためすぐにつまずく。これが石ころだらけの土地に落ちた種だ。
御国の言葉は聞くが、世の思い煩い、富の誘惑に覆い塞がれて実が出ない。これが茨の間に落ちた実だ。
御言葉を聞いて悟り、よく考えて行動し、豊かな実りを得る人。これが良い土地へ落ちた実だ。
マタ13:24-30〈「毒麦」のたとえ〉
或る人が畑に麦の種を蒔いた。そのあと敵がやって来て、同じ畑に毒麦の種を蒔いた。種は生長して芽が出て実った。人々はそこでようやく毒麦が畑に紛れこんでいることを知り、主人にその旨伝えた。主人は、刈り入れのときまでそのままにしておけ、といった。刈り入れではまず毒麦を集めて焼くための束とし、そうでない麦は刈って集めて倉に蓄えておくよう、刈り入れするものにいうておこう。
マタ13:31-33〈「からし種」と「パン種」のたとえ〉
天の国はからし種に似ている。畑に蒔いたときはどんな種よりも小さかったのに、育てばどの野菜よりも大きくなる。
天の国はパン種に似ている。3サドンの粉に混ぜて焼けば、全体が膨らんで大きくなる。
マタ13:34-35〈たとえを用いて語る〉
──イエスはこれらのことを皆、たとえを用いて群衆に語った。たとえを用いずして語ることはなかった。これは預言者を通して語られたことの実現である。
マタ13:36-43〈「毒麦」のたとえの説明〉
群衆を残して家に入ったイエスのそばに弟子たちが来て、毒麦のたとえはどのような意味ですか、と訊ねた。イエスは答えた、──
良い麦の種を蒔くのは人の子、畑は世界、良い種は御国の子らである。毒麦の種を蒔くのは悪魔、刈り入れとは世の終わり、刈り入れ人は天使たちである。
「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタ13:41-43)
マタ13:44-50〈「天の国」のたとえ〉
天の国は、畑に隠された宝に似ている。良質の真珠を探し歩く商人に似ている。また、湖に仕掛けられた投網に似ている。網が魚でいっぱいになれば人々はそれを引きあげ、良い魚と傷んだ魚に分別する。
世の終わりにはこうなる。天使たちが来て正しい人のなかに潜む悪い者を選り分けて、悪い者はまとめて燃え盛る炉のなかに放りこまれる。奴らはそこで泣きわめき、歯ぎしりするだろう。
マタ13:51-52〈天の国のことを学んだ学者〉
イエスは弟子たちに問うた。あなた他はこれらのことがわかったか。弟子たちは、わかりました、と返事した。
天の国のことを学んだ者は皆、新しい教えと古い教えを自分の倉から出すのである。
マタ13:53-58〈ナザレで受け入れられない〉
──これらのことを語り終えたイエスは、故郷ナザレに帰って、そこの会堂で説教した。
すると人々は驚いて、いった。かれは何者か。いつの間にこんな知恵と奇跡を行う力を身に付けたのだ。かれは大工の息子ではなかったか。母はマリア、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、姉妹はわれらのなかに住んでいる。かれはどこでこのような力を備えたのか。こう口々にいって、人々はイエスにつまずいた。
イエスは慨嘆し、呟いた。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」(マタ13:57)
このように町の人々が不信仰であったため、イエスはナザレで殆ど奇跡を行わなかった。
真実、事実をありのままに語るよりは、喩えを用いて説明する方が相手の心に届くこともある。その方が、かれらが理解できることもある。人を教える立場を経験した者ならば、ほぼ例外なく首肯できる話ではないだろうか。が、これは一方で、教える者がどれだけ相手のことを把握しているか、を試されることでもある。誤ると疑念を持たれたり、不信を買うことにもつながりかねない。両刃の剣だ。イエスは、これまでに読んできたところを含めても、実に豊かな語りの才能を持った教師である、といえよう。
引用もしたマタ13:17だが、これを家族や家庭という社会を構成する最小単位にまで引き下げて顧みると、悲しみに肺腑を捕まれ、落涙を禁じ得ず、申し訳ない気持ちに囚われてしまう。自分が見ているもの、聞いているものを見聞きしたかった人がいるのに、その人たちはいま自分が見ているもの、聞いているものを見聞きすることはできないのだ。──わたくしは自分の家庭を持ち、家族を作り、親に孫の顔を見せ、抱かせられないことを罪に思う。親不孝だと思う。ロクデナシだと思う。磔刑に処さるゝべきは、腹を槍で突かれて血を流すべきは、額に<罪人>の焼き印を押されすべきは、ひょっとすると自分なのではなかったか。そんな風に思い詰めもするのだ。
未来は閉ざされた。いまや先に続く道は一つしかない。そこに家族を得ること、それによってやすらぎがもたらされること、血脈を次の時代、新しい世界へ残すこと。そうした希望がそこにあるとは、もはや期待できないのである。
本日の旧約聖書はマタ13:14-15とイザ6:9-14、マタ13:35と詩78:2。
「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。 /
この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。/こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。/わたしは彼らをいやさない。 」(マタ13:14-15)
これの典拠は、
「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。/この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。/目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」(イザ6:9-10)
「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」(マタ13:35)
これの典拠は、
「わたしは口を開いて箴言を/いにしえからの言い伝えを告げよう 」(詩78:2)
いちばんの理解者であり、いちばんの不理解者は身内にある、というこの矛盾。が、古来よりこれを覆す事実も存在しない。なんたることか……!◆