第1862日目 〈マタイによる福音書第16章:〈ペトロ、信仰を言い表す〉、〈イエス、死と復活を予告する〉他with賛さとう珠緒〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第16章です。

 マタ16:1-4〈人々はしるしを欲しがる〉
 ファリサイ派とサドカイ派の人々がイエスを試そうとかれのところへやって来て、天のしるしを見せてみよ、といった。イエスは答えた、──
 あなた方は空模様を見て明日の天気がわかるのに、時代のしるしを見ることはできないのか。邪で神に背く時代の者は欲しても天のしるしを得ることはできない。
 そういうや、イエスは飄然とかれらの前から去った。

 マタ16:5-12〈ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種〉
 ガリラヤ湖の対岸でのことだ。イエスは、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意するように、と弟子たちにいった。弟子たちはパンを持ってきていなかったので、イエスがそれについていっているのだ、と話し合った。すると、それを聞き咎めたイエスの曰く、──
 どうしてあなた方はわからないのか。覚えていないのか、数個のパンで数千人の空腹を満たしたことを。そのとき、パン屑は幾籠分になったか。もう一度いう、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。
 ──そのときになってようやく弟子たちは、イエスがファリサイ派とサドカイ派の教えに注意せよ、といっているのだ、と思い至ったのである。

 マタ16:13-2〈ペトロ、信仰を言い表す〉
 ガリラヤ湖最北に近いフィリポ・カイザリア地方にて。
 イエスは問うた、皆は人の子のことを何者と呼んでいるか、と。弟子たちが答えるには、洗礼者ヨハネ、預言者得エリヤまたはエレミヤ、或いは預言者の一人である、と。
 重ねてイエスが、ではあなた方はわたしを何者と思うか、と問うた。するとシモンことペトロが進み出て、いった。あなたはメシア、生ける神の子。
 イエスはシモンのこの信仰告白に感じて、かれを祝福し、ペトロの首位権を約束した。そのときのイエスの言葉に曰く、──
 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタ16:17-19)

 マタ16:21-28〈イエス、死と復活を予告する〉
 この頃からである、イエスがやがて訪れる自身の未来について語るようになったのは。曰く、自分は必ずエルサレムへ行くが、そこでファリサイ派や律法学者らに苦しめられてやがて殺されよう、が、わたしは3日後に復活するだろう、と。
 これを聞いたペトロは慌ててイエスを脇へ連れてゆき、どうしてあのようなことをお話しするのですか、と諫めた。殺されたり甦るなどあってはなりません。
 イエスはペトロにいった。阻むな、サタン。あなたは神を思わず、人間を思っている。
 そうしてイエスは弟子たちにこういった。曰く、──
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(マタ16:24-28)

 本章が福音書、イエスの公生涯と言行を記録した書物のターニング・ポイントとなる。12人の弟子のうちシモンが信仰告白をしたことで、かれが弟子団の筆頭、代表格と見做された──もっとも、このあとかれの信仰は二転、三転し、イエス亡き後は使徒として初期キリスト教会の立役者となり、伝承ではローマに赴くイエスの幻に付き従ってかの地にて逆さ磔刑に処された、という──。世間からイエスの霊性は相応に認知されている。そうして、4つの福音書に共通して存在する唯一無二のクライマックス、即ち捕縛-尋問-磔刑-死-復活が、他ならぬイエス自身の口から予告される。……これはもはや予告ではなく予見ではあるまいか。
 いずれにせよ、ここは重要な部分である。ゆえ、早々に「まとめ」を諦めて大部の引用を決意した。但し、読みやすさを優先して適宜改行した。
 なお、ペトロとはギリシア語で「岩」という意味。イエスは、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる、というた。これは建造物としての教会では勿論なく、砂のように脆いものではなく<岩>という堅固など台の上に末永く続く信仰を表すための場所、即ち教会を、個人個人が心のなかに持つようになさい、という風なことであろう。揺るぎなく信仰を持て、と諭すこの件、なかなか味わい深い箇所である。



 いまやすっかり形を潜めて「あの人はいま」状態にあるさとう珠緒だが、わたくしはこの人が実は好きである。和久井映見や宮﨑あおいに較べてしまえば女優としての格は下がるかもしれないけれど、この人にはこの人ならではの独特の雰囲気がある。脚本と監督と撮影に恵まれさえすれば、デカダンス女優の最右翼になり得るだろう。「希望ヶ丘夫婦戦争」からそこまではあと2,3歩のような気がするのだけれど。
 あの妖艶あるエロス、影を帯びた表情と姿態、見る者すべてを捕らえて吸いこんでしまうような底知れぬ瞳。それらのあるを差し置いて壇蜜とか橋本マナミなんて足下にも及ばないと思うのだが。たっぷりとした愛情を注ぎこみ、果てることなき情念の暗い渦に絡め取られて<地獄へ落ちるときはお前も一緒……>的なファム・ファタル振りを演じきることのできる女優は、さとう珠緒を於いて今日、他にいないと思うのだが?
 わたくしはさとう珠緒を、和久井映見や宮﨑あおい程ではないけれど、それに肉薄するぐらいの想いを秘めて愛していると告白したい。◆

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